Title:クリスマスの贈りもの


棚の奥で、なにかがカサリ、と落ちる音がした。その音を聞き、恭一はふと抽斗を探っていた手を止めた。

このとき恭一が探していたのは、彼がふだん身につけている腕時計の保証書兼説明書だった。

それは数年前に購入して以来、愛用していたものだったが、日中ふいに、大幅に時刻がずれていることに気がついたのだ(おかげで、職場で肝を冷やすはめになった)。そして今や、うんともすんとも動かない。

購入した際、外箱は捨てた気がするが、保証書類は捨てずにとってあるはずだった。

今ヶ瀬に尋ねれば、「貴方は、物の収納場所をちっとも覚えない」とぶつぶつ言いながら、それでもたちどころに見つけだし、手渡してくれただろう。しかし彼は今日、仕事で留守にしていた。

毎日使うものだけに先延ばしにすることもはばかられ、たしか貴重品をしまってある棚にあるはずと、恭一は先ほどからその中をごそごそと探っていたのだった。

抽斗から落ちてしまったそれは、どうやら棚の背板の方に入りこんでいるようだった。

面倒なことになったと、心の中でちいさくため息をつく。しかしすぐに気持ちを切り替えると、下段の抽斗をぎりぎりまで手前に引き、棚の奥に手を伸ばした。

しばらく空を切っていた指に、ふいに紙の感触をとらえる。なんとか指先でつまみあげるようにして取りだしたそれは、淡いブルーの封筒だった。おもてにもうらにも、宛名や住所はなにも書かれていない。

——なんだろう。今ヶ瀬がしまったのかな。

中になにか入っているのか、触れるとふかふかと柔らかい。封もされていないその封筒を逆さに振ると、手のひらのうえに、細長い布きれのようなものがふわりと落ちてきた。

そこに入っていたのは、絹のような光沢が美しい、一本の白いリボンだった。

なんのリボンだろうと訝しく思う。しかし頭の片隅で、かすかに記憶が点滅するような感覚があった。目をこらしてよく見ると、布地の表面に同系色のラメで“Merry Xmas”とプリントされている。

その瞬間、恭一が思い出していたのは、去年のクリスマス・イブのことだった。


約一年前のクリスマス・イブ——

仕事をはやめに切り上げた恭一が向かっていたのは、職場から数駅先の繁華街にある、大きなデパートだった。

今ヶ瀬へのクリスマスプレゼントを、今日こそ手にいれること——恭一の目的はそれだった。

夕暮れどきの街は、このシーズン特有のはなやかな雰囲気に包まれていた。クリスマスソングが街中に流れるなか、行き交う人々も心なしか愉しげにみえる。

しかしそんな街の雰囲気にも、恭一はどこか追い立てられるような気持ちになる。彼になにを贈ればよいのか、当日の今日になっても、まだ決められていなかったのだ。

クリスマスプレゼント——女性にはかつて何度も渡してきたものの、男に渡すのははじめてだった。

誕生日のときのように、彼に直接、欲しいものを尋ねればよかったのかもしれない。しかしそれを聞いてしまうと、相手にも贈りもののプレッシャーを与えるようで気が引けたし、それとなく探りをいれてみたものの、今ヶ瀬はクリスマスについて、とくに気にかけている様子もなかった。

男同士、そんなイベントごとなど面倒くさいと思っているのかもしれない。これまでであれば、クリスマスは決して外すことのできない重要行事だったのだが……と、恭一は落ち着かない気持ちになる。

今朝も、玄関先で今日ははやめに帰れそうだと伝えると、彼は恭一に鞄を渡しながら「じゃあ、ちょっといいメシでも作りましょうか」と微笑んで言っただけだった(そして、ワインのおつかいを頼まれた)。

けれど万一、彼がなにか用意してくれているかもしれないと思うと、手ぶらで帰ることはできなかった。

それになにより、なんの義務でも義理でもなく、自分が彼に贈りものをしたかった。今ヶ瀬が喜ぶようななにか——しかしそれがなんなのか、情けないことに見当もつかないのだった。

藁をもつかむ思いで、これまで購入してきたプレゼントの数々を頭に思い浮かべてみる。

ネックレスやリングやピアスなどの装身具、ハンドバッグや靴といった服飾品……しかし、どれもこれもピンとこない。そもそも彼女たちと今ヶ瀬では、なにもかもが違いすぎた。

また、こうして振り返ってみると、それらはすべて女性たちに直接リクエストされるか、あるいは店員に勧められるまま買ったものばかりで、恭一が心から相手のことを想い、自分の意思で選んだといえるものは、ただの一つもなかった。

あれだけ多くのものを買ってきたのに、自分はこれまでなにをしていたんだろうと、情けない気持ちになる。

ともあれ、最後の希望はデパートだった。なかなか一人の時間がとれず、もう当日になってしまったが、とにかくそこでいろいろ見てみよう——そう考えながら、人波のなかを足早に歩いていく。

ようやくデパートへ到着し、自動ドアをくぐり抜けると、人工的なあかるい光と空気に包まれた。

そのときふと、みずみずしい花の香りが恭一の鼻先をとらえた。なにげなく辺りのショップを見渡す。そして見かけたある店先のひとつのポップに、恭一の目は吸いよせられていた。


「ただいま」

玄関で靴を脱ぎながら、恭一は室内に向かってそう声をかけた。居間の心地よい暖気と、美味しそうな夕餉の香りがこちらの方まで漂っている。

すぐに、おかえりなさい、と廊下の先から今ヶ瀬が顔をのぞかせた。キッチンで作業をしていたのか、一瞬水を使う音をさせたあと「ワイン、買ってきてくれました?」と言いながら、恭一の方へ向かってくる。

荷物を受けとろうと近付いてきた今ヶ瀬に、恭一はワインボトルの入った細長い紙袋と、もう一つ、大人の両腕にひと抱えほどの大きさの紙袋を、はい、と言って手渡した。

もっとマシな渡し方があるだろう、と頭の中で別の自分が呆れたように言う。しかし今の恭一には、これが限界だった。

彼に手渡すその指先が、緊張でわずかにこわばる。自分の気持ちをこめたものを渡すことは、予想以上に勇気のいることなのだと、恭一ははじめて理解していた。

頼んだおぼえのない紙袋を手渡され、今ヶ瀬は「なんですか?」と言いながら、袋の中をのぞきこんだ。そして中身を見たとたん、硬直したように静止する。

紙袋の中に入っていたのは、美しく包装された、赤い薔薇の花束だった。蕾をひらいた9本の薔薇が、純白のかすみ草とともに透明のセロファンに包まれている。

恭一が言葉につまっていると、驚いたように目をみはった今ヶ瀬が顔をあげ、ばちりと目が合った。

「これ、先輩が買ってきたんですか?」

信じられない、という驚愕の表情で今ヶ瀬が尋ねる。平静をよそおって、うん、とうなずくと、今ヶ瀬はおそるおそるといった調子で「……俺に?」と聞いた。

「……ほかに誰がいるんだよ」

こみあげる羞恥を必死でこらえて、なんとかそう一言返す。やはり、薔薇の花束など変だったのかもしれない。

後悔の念が瞬時に胸に広がっていく。本当は、なぜそれを選んだのかもきちんと伝えたかったはずなのに、もう言葉がでてこなかった。

今ヶ瀬はしばらくあっけにとられた様子で恭一の顔を見ていたものの、それが本当に自分のための花束なのだとわかると、うろたえたように俯いた。

「ありがとうございます。すごく……嬉しいです」

表情は窺えなかったが、決して社交辞令ではない彼のその声音に、恭一はようやく、少しだけほっとする。


その日の夕食は、恭一の好物ばかりだった。それらの料理を味わったあと、居間のソファに移動し、二人でゆっくりとワインを飲む。

すると今ヶ瀬はどこからか、小ぶりの手提げ袋を持ってきた。メリークリスマスです、と言って、恭一にさりげなく手渡す。

そのスマートな渡し方に若干の敗北感を覚えつつ包みをひらくと、それはカーフレザーの上品な艶が美しい、黒のカードケースだった。

そういえば最近、現金での支払いがほとんどなくなったこともあり、カードと最低限の紙幣だけをいれられる、こんな財布が欲しかったのだった。しかし、口に出したことはないはずで、彼の観察眼に内心で舌を巻く。

またそれは、一目見てわかるほどに質のよいものだった。おそらくそれなりに高価だったに違いない。恭一は改めて後悔した。

「ごめん、こんないいもの……。俺、花束しか用意してなくて」

本当は、フラワーショップを出たあともぐるぐるとフロアをまわったものの、なにがよいのか迷っているうちに、タイムアップになってしまったのだった。

なに言ってるんですか、と今ヶ瀬は笑う。

「貴方がくれたものに比べたら、たいしたもんじゃないです。……あの花束を貰ったとき、俺がどれほど幸福な気持ちになったか、きっと貴方にもわからない」

なんと言葉を返したらよいかわからず、恭一はワインを一口、口に含んだ。

しかしふと、「そうだ」と思い出したようにつぶやくと、ソファを立った。そして、クロゼットにかけてあるコートのポケットからごそごそと小さな包みを出すと、ぽんと今ヶ瀬に手渡した。

「これ、おまけ」
「……なんですか?これ」

それは指人形ほどのサイズの、雪だるまのオーナメントだった。帽子がわりの赤のバケツの先に、金色の紐のループがついている。

恭一がそれを見つけたのは、薔薇の花束を買ったフラワーショップのレジカウンターだった。顔から火がでるような思いで包装を待っていたそのとき、ふとカウンターの片隅に並べられた、ちいさな人形たちが目についた。

にこにこと笑っている表情のサンタクロースやトナカイたちにまじって、その雪だるまだけは、口をへの字に結んだ無愛想な表情をしてそこにいた。手にとってまじまじと見つめたあと、恭一は「これもください」と店員に声をかけていたのだった。

「よくわかんないけど、クリスマスツリーにかけたりするやつだろ。……むすっとしてて、可愛いだろ、それ」

本当はその顔が、機嫌をそこねて拗ねたときの今ヶ瀬の表情にそっくりで、可愛いと思ったことは黙っていた。

「可愛い?これが?」

今ヶ瀬は怪訝そうに言いながら、指にぶらさげたその人形をちょんとつつく。そして、呆れたという顔で恭一を見ると、貴方って本当に変な趣味ですね、としみじみと言った。

恭一は数秒間沈黙したあと、「……まぁ、そうだろうな」と一言返す。


それにしても、と今ヶ瀬は言い、ソファの上にたてた膝のあいだに、顔をうずめるようにしてうなだれた。

「クリスマスプレゼントが、薔薇の花束とコレって……」

やはり落胆させてしまったかと、恭一はぎくりする。慌てて、おろおろと言葉を探した。

「そうだ、週末! 週末、一緒に買いものにいこう!」

そして「お前の欲しいもの、なんでも買うから——」と言いかけるものの、よく見ると、今ヶ瀬の肩が小刻みに震えている。

彼は膝に顔をうずめたまま、可笑しそうにくつくつと笑っていた。そしてとうとう、我慢できないといった様子で腹をかかえて笑いだす。

「貴方って……本当に……変な人だ」

ツボに入ってしまったのか、もはや遠慮のかけらもなく「ダメだ、お腹いたい」と言いながら、息も絶え絶えに笑いころげている。

……余計なことを言わなくてよかった。恭一はそう思いつつ、憮然とした表情でワインを飲んだ。

今ヶ瀬はその隣で、いつまでも楽しそうに笑いつづけていた。


白いリボンを手にしたまま、恭一は一年前のその日のことを、ありありと思い出していた。

このリボンは、あのときの薔薇の花束に結わえられていたものだ。フラワーショップで包装を頼んだとき、これを選んだ記憶がたしかにあった。

あの日、彼は本当に、あの花束をよろこんでくれたのだ——。

大切そうにしまわれているそのリボンを見て、恭一はようやく、そう心から安堵することができた。そして、自分がそれを選んだ理由にも、きっと彼は気がついたと確信する。

デパートに足を踏みいれたあの瞬間、恭一の目を引きつけたのは、「大切な人に花を贈ろう」というフラワーショップのポップに書かれた、薔薇の花言葉だった。

その説明書きによると、薔薇はその本数によって、さまざまな意味をもつのだという。「永遠の愛」「あなたは完璧」といった情熱的な言葉の羅列が続くなか、9本の薔薇が意味するという、「いつも一緒にいてほしい」というシンプルな一文が、恭一の胸をいた。

今ヶ瀬と暮らしはじめて、ようやく一年が経とうとするあの頃——それは実際のところ、穏やかで安定しているとはとても言いがたい日々だった。

別の人間相手であれば流せるような些細なことが、なぜか彼とのあいだでは、たちまち喧嘩に発展し、予測不能な方向にこじれていく。愛しているからこそ、おたがいに流せないし、譲れないこともあるのだと、バツイチで三十も越しているというのに、そんなことをはじめて知った。

今ヶ瀬は、冷静沈着なようでいて激情型で、まるで間歇泉のようになんの前触れもなく——彼に言わせると、争いの理由は恭一がすべてわざわざ持ちこんでくるのだと言うが——怒り狂っては、基本的に「譲歩」や「妥協」という概念の枠外で生きているような男だった。

一方で恭一も、女性相手であればこらえたようなことを、彼に対してはつい遠慮なく口にだしてしまう。そんなわけで、二人の生活はほぼ絶え間のない会話か口論、ひどいときには怒鳴りあい——今ヶ瀬はひどく興奮すると、物を投げつけてくることすらあった——のいずれかを、ほとんど毎日、ひたすら繰り返しているといってもよかった。

しかし彼は、どんなにはげしく取り乱そうとも、関係の終わりを仄めかすようなことは決して口にしなかった。

かつて自分が伝えた「三度目はない」という言葉を、彼は忘れてはいない——そしてまだ、終わらせたいとも思っていないのだ。おたがいはっきりとは口にしなくても、彼があのときの自分の言葉を守っていることが、恭一にはわかった。

そして「決して終わりの言葉は口にしない」というその事実だけが、はてのない衝突と葛藤の日々のなかで、唯一、自分と彼とを繋ぎとめている命綱ですらあった。

そんな、とても平穏とはいいがたい日々ではあったが、今ヶ瀬が終わらせたいと願わないかぎり、恭一は彼を離す気はなかった。その想いが、今ヶ瀬に伝わればいい——そう思いながら、あの日、薔薇の花束を買ったことをなつかしく思い返す。


あれからもう、一年が経ったのだ。恭一は、まるで自分の目から隠すようにそれをしまっていた彼を、当時よりもいっそう深く、愛していることを自覚する。

そういえば、あの雪だるまはどうしたんだろう。

恭一はふと思い出し、なにげなく部屋を見渡した。すると、窓辺に置かれた観葉植物の木の枝に、まるでクリスマスツリーのようにそれが引っかけてあることに気づいた。おもわず、ふ、と笑いが漏れる。

今年ももう、クリスマスまであと数週間をきっている。すでに彼への贈りものは決めてあったが、またあのフラワーショップで、薔薇の花束も買って帰ろう——今年も変わらず、同じ気持ちでいることを伝えるために。

あの雪だるまの仲間も、また置いてあるといいんだけど。恭一はそう思いながら、リボンを丁寧にたたんで封筒に戻すと、抽斗の奥にそっとしまいなおした。

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