冷たい雫を、ふと頬に感じた。
雨か、と思った瞬間、夕暮れ時の曇り空から、ぱらぱらと続けて雨粒が落ちてくる。
駅前のスーパーに寄った帰路の途中、交差点で信号待ちをしていた今ヶ瀬は、身につけていたマウンテンパーカーのフードをかぶった。
水滴が衣服の表面をうつまばらな音が、車の走行音とまじって耳元に響く。
雨は幸い小降りで、この程度なら家に着くまでに、さほど濡れる心配もなさそうだ。今ヶ瀬はそう安堵し、曇り空に向けていた目をふたたび信号機に戻した。
横断歩道の向かい側で信号待ちをしているカップルは、一つの傘の下で身体を寄せあっている。
目の前を通り過ぎる車の合間に、その傘のあかるい朱色があざやかに目に映る。視界の中に立つ彼らの姿を、今ヶ瀬は見るともなく眺めた。
二人は仲むつまじい様子で、楽しげに何かを話している。そして、ふいに女が傘を持つ男の腕に、甘えるように腕を絡めて微笑んだ。
おたがいに向ける柔らかな眼差しが、彼らが特別で大切な関係なのだということを、はっきりと物語っている。
周りの目を意識するそぶりもなく、あくまで自然な様子の二人の姿に、『幸せそうなカップルだな』と、素直に思う。
一方で、小石のようなひっかかりが、ちくりと胸につかえる感覚があった。
恭一と二人で外を歩くとき、彼らのようにカップルらしく振る舞うことはない。自分たちは周囲から、いったいどんな関係に見えるのだろう。
兄弟——まったく似ていないので、それはない。
友人同士——確かに仲はよいが、友人とは少し違う気がする。
先輩と後輩——やはりそれが、いちばんしっくりくるだろう。
自分たちが恋人同士であり、パートナーであるということは、ほんの一握りの人間しか知らない。
あんな風に堂々と恋人——あるいは夫婦——として振る舞い、世間から認められることは、おそらく一生ない。
自分には縁のない幸せ。そしてまた、自分が恭一から取り上げてしまった幸せ——。
栄養のバランスを考えつつ、恭一の好物を買いこんだスーパーの袋が、掌にずしりと食いこむ。
信号が青に変わった瞬間、今ヶ瀬は夕闇の冷たい雨から逃れるように、足早に家路についた。
マンションの玄関を開けると、明かりのついた居間の方から、「おかえりー」と間延びした恭一の声が聞こえた。普段どおりの、平和でのんきなその声に少しほっとする。
今ヶ瀬はパーカーについた雨の雫を払うと、「ただいま」と恭一に聞こえるように言いながら、居間へと入った。
しかし夕食の準備をし、恭一と食事をしているあいだも、先ほど目にした光景がもやもやと心にひっかかる。
彼らの何がこんなにもひっかかるのか、今ヶ瀬自身にも不可解だった。
幸福そうな男女のカップルなど、それこそ世の中には溢れているのだ。ゲイとして生きる中で、そんな彼らの姿を目にするたびにいちいち傷ついていたら、心などとっくにすりきれて無くなっている。
ただあのとき、いつもなら気にも留めないその光景に、なぜかショックを受けたことも事実だった。
今ヶ瀬は腑に落ちない気持ちのまま、黙々と箸を動かした。
しかしふと、テーブルの正面で同じように箸を動かす恭一の顔をみて、ようやくその理由に思いあたる。
あのカップルの男性が、恭一に似ていたのだった。
まっすぐに通ったかたちのよい眉と、優しげな目元——。年代も背格好も違うため、すぐには気がつかなかった。
けれどこうして思い返すと、彼の面差しは恭一にそっくりだった。そしてあの屈託なく笑う女性は、かつて恭一の隣で同じように笑っていた、たまきを連想させた。
だからこそ、いかにも幸福そうに寄り添う彼らの姿に、ちくりと罪悪感を抱いたのだ。
二人で片付けを終えた後、ベッドに横たわって本を読んでいる恭一の後ろ姿に、今ヶ瀬は無言で抱きついた。
彼の背中に頬をつけ、そこから直接伝わってくる、あたたかく落ち着いた鼓動に耳を傾ける。
普段どおりの今ヶ瀬のしぐさに、恭一はしばらくそのままページを繰っていたものの、ふいに何か察したのか、本を閉じて今ヶ瀬の方を向いた。
「どうした?」
そう尋ねながら、今ヶ瀬の身体を抱きしめるように抱える。
今ヶ瀬は黙ったまま、恭一の腰に腕をまわし、さらに強く抱きついた。くたりと馴染んだTシャツに顔をおしつけ、恭一の安心感のある——彼の肌だけが持つ、とてもいとおしい——匂いを思いきり吸いこむ。
こうして抱きあっているときの方が、向かいあっているときよりも素直に話せる気がする、と思う。
そして、今ヶ瀬は恭一の胸に顔をおしつけたまま、くぐもった声で今日の出来事を話した。
駅前からの帰り道、幸福そうな相合傘のカップルを見かけたこと。
甘えるように腕を絡める女性の笑顔と、それを見つめる男性の柔らかな眼差しが、とても眩しく見えたこと。
そんな風に、人前で堂々と愛しあい慈しみあえる彼らを、羨ましいと思ったこと——。
慰めも解決策もいらなかった。ただ、思ったことを素直に口にして、それを聞いてもらえることがありがたかった。
俺は貴方からその幸せを奪ってしまった、という言葉は口にしなかった。
簡単に言葉にして、「ごめん」と言って済むようなことではない。なによりそんなことを今さら謝るのは、すでに覚悟を持ってそばにいてくれている恭一に対して、失礼だった。
今ヶ瀬が話し終えると、恭一は黙ったまま、ゆっくりと今ヶ瀬の頬を撫でた。そのあたたかく馴染んだ手の感触を、今ヶ瀬もわずかに顔を傾け、無言で受け入れる。
すると、そのまま親指でそっと耳殻をなぞられ、くすぐったさにおもわず喉の奥から笑いが漏れた。
「こんなふうにさ」と、恭一がようやくぽつりと口を開いた。
「お前が甘えてるところは、俺だけが見ていれば十分だろう?」
「……そういう問題じゃない」
とっさにそう反論しながら、恥ずかしさで顔が熱くなる。
論点のすりかえ——そもそも議論したいわけでもないが——だと思う。でもそれが、恭一の優しさであることも分かっていた。
俯いて顔の熱がひくのを待っていると、恭一の手がもう一度、今ヶ瀬の頬に触れた。
構える間もなく、今度は熱い唇を重ねられ、歯の隙間から恭一のあたたかな舌が滑りこんでくる。
反射的に顔を引こうとした瞬間、頭の後ろに手がまわされ、ぐいと引き寄せられた。
この男は、自分をどこにも逃がさないよう、しっかりと捕らえている——それは、その事実を実感させてくれる口づけだった。
陶酔と安堵が、みるみるうちに胸の内に広がっていく。全身から力が抜け、今ヶ瀬はぐったりと恭一に身をまかせた。
ゆっくりと甘く舌を吸い、おしまいに耳や額にも唇をつけた後、恭一が今ヶ瀬の顔をのぞきこんだ。
いつものポーカーフェイスの下で、今ヶ瀬が確かに嬉しがっている気配を察知したのか、恭一の瞳が、柔らかな眼差しをにじませて笑う。
とたんに照れくさくなり、今ヶ瀬は「珈琲でも淹れますね」と言って身体を起こした。すると「俺が淹れるよ」と、恭一が先に腰をあげた。
かちゃかちゃと準備をする音とともに、「なー、もう豆ないから買ってこようぜ」という恭一ののんきな声が、キッチンの方から聞こえてくる。
数分後、マグを二つ持って戻ってきた恭一は、そのうちの一つをベッドに座る今ヶ瀬に手渡した。
珈琲のこうばしい香りと、静かな夜の心地よい沈黙が、ゆったりと寝室の中に漂う。
先に口を開いたのは、恭一だった。
「……大変なこともあるけどさ」
両手でカップを包むように持ちながら、そう切りだす。
「それでも一緒にいたいんだから、どうにか二人でやっていくしかないだろう」と、落ち着いた声で淡々と言った。
そして今ヶ瀬の目をのぞきこむと、彼らしいおおらかな笑顔で「なんとかなるよ」と言って笑う。
恭一が二人の関係や将来について、真剣に考えていることは分かっていた。
ゲイの自分よりもよほどまめに、同性婚やパートナーシップ制度について調べ、それらのニュースにたびたび目を通している。
この社会で生きる限り、本来ならする必要のなかった苦労を恭一に強いてしまったという罪悪感は、おそらくずっと拭えないだろう。
けれど恭一は、指輪を渡してくれた日から、もうけっして不安そうな顔は見せなかった。
今もこうして隣に腰かけ、穏やかな表情で珈琲を飲んでいる。彼はいつのまに、こんなにも強くなったのだろう。
どんな現実が待ち受けているのだとしても、二人でいられさえすれば、それだけで何もいらないと思っていた。
——恭一の隣にいて数年、俺はどんどん欲ばりになるな。
でも、それはきっと悪いことではないのだと、今は思う。
シーツの上に載せていた手が恭一の手にあたり、どちらからともなく指を絡めて握りあう。
同時に、苦くて熱い珈琲が喉の奥に滑り落ち、今ヶ瀬はやっと、身体が芯からあたたかくなっていくのを感じた。
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