「——先輩! 起きてください! もう8時‼︎」
今ヶ瀬のめずらしく取り乱した声が、ふいに耳に届いた。続けて、ゆさゆさと焦った様子で肩を揺すられる。
枕に顔をうずめて眠っていた恭一は、彼のその声と動作に、うっすらと目を開けた。
「………えっ、8時!?」
彼の言葉にがばりと上半身を起こし、ベッドに転がっている携帯電話を慌ててつかむ。そして液晶画面にあらわれた「AM08:02」という数字に、一瞬、頭が真っ白になった。
今日は……金曜日で平日で出勤日で、あらためて考えるまでもなく、普段であればとっくに家を出ている時刻である。
状況を把握したその瞬間、頭から一気に血の気がひく。恭一はなにも身につけていない裸姿のまま、転げ落ちるようにベッドから飛びだした。
まっさきに洗面所に駆けこむと、鏡にうつる青ざめた顔と大胆な寝ぐせがアンバランスで、その滑稽さにますます焦りがこみあげた。
急いで顔を洗って歯を磨き、ふたたび寝室に駆け戻る。そしてクロゼットの抽斗を開けると、目についた下着とアンダーシャツをつかみだした。
もがくようにそれらを身につけながら、靴下を探す。しかし抽斗の中身をいくらひっくり返しても、仕事用のものが見つからない。
「ダメだっ! 靴下がない‼︎」
おもわず半分泣きだしそうな、ひどく情けない声が出た。
「乾燥機に入ってる‼︎」
隣の部屋から、今ヶ瀬がそう叫ぶ声が聞こえた。——昨夜、あれから洗濯をしてくれたのか。彼のその言葉に、恭一は少し驚く。
興信所の調査員をしている今ヶ瀬が、数週間もの長期の出張を終えて二人の家に戻ってきたのは、つい昨夜のことだった。
長旅で彼も疲れていたし、恭一自身、翌日の仕事のために早めに休むつもりでいたものの、久しぶりに一緒に風呂に入ってしまうと、もう我慢ができなかった。
風呂場から縺れるように寝室に行き、離れていた間の空白を埋めるように、時間をかけて愛しあった。そしてそのまま、性交後の充足感からくる猛烈な眠気に襲われ、気絶するように眠ってしまったのだった。
今ヶ瀬はあのあと一人で起きて、たまった家事を片付けてくれたようだった。そういえば、どこか雑然としていた部屋もすっきりと整理されている。
「だから俺はヤダって言ったのに、先輩ががっつくから……」
いつのまにかそばにきていた今ヶ瀬が、あたふたと着替えている恭一にワイシャツやネクタイを手渡しながら、ぶつぶつと言う。
昨夜、そんな言葉を聞いた記憶はまったくなかったが、とても反論をする余裕はなかった。
少なくとも、湯船の中で軽いキスを交わしたあとに恭一が深く口づけると、まるで待ちわびたように舌を絡めたそのしぐさからは、到底、拒絶の意は感じられなかったが——。
慌ただしくネクタイを締めながら、恭一は昨夜の彼の様子をそう思い返す。
そもそも、今ヶ瀬の「イヤだ」や「ダメだ」ほど、あてにならないものはないのだ。これまでどれほどその言葉に振り回されてきたことか、と内心思う。
しかしそんなことを迂闊に口にすれば、どんな攻撃が飛んでくるかわからない。
また、文句を言いながらもこまごまと世話を焼いてくれる今ヶ瀬に強くでることもできず、恭一は返事のかわりに冗談っぽく眉を上げ、わざとらしくとぼけた顔をしてみせた。
すると、その表情におもわず吹きだした今ヶ瀬が、恭一の腰のあたりを軽く蹴り、二人で短く笑いあう。
「財布、ケータイ、家の鍵!」
なんとか身支度をすませ、玄関でもどかしく革靴を履いている恭一の背中に、今ヶ瀬がキッチンから声をかける。
「えっと……持ってる!」
そして恭一が家を出ようとすると、今ヶ瀬が口を縛ったゴミ袋を持ってついてきた。ゴミ捨て場へ行くついでに、マンションの下まで見送ってくれるつもりらしい。
朝のすがすがしい空気の中、二人でマンションの階段を駆け下りる。
「お前、今日はなにすんの?」
「休みとってるんで、家の掃除と食材の買い出しでもしてますよ。冷蔵庫にほぼビールしか入ってないし」
どうせ俺がいない間、コンビニ弁当ばっか食ってたんでしょ、と言う。
悪かったな、と恭一が答えると、だから今日は貴方の好物をいっぱい作りますね、とふと柔らかな口調で言った。
階段の下の小さな踊り場に降りると、周囲に誰もいないことを確認し、彼とすばやくキスを交わす。そして今ヶ瀬と別れると、恭一は駅へと向かう道を駆けだした。
空は見事な快晴で、小鳥ののどかな声が聞こえてくる。いい天気だな、と走りながら思う。
そして頭の中で、ざっと今日の仕事のスケジュールをさらう。たしか午前中には、会議や外出の予定はないはずだった。
少しほっとするような気持ちになり、恭一は駆け足だった歩調をゆるめた。そしてなにげなく、マンションの方を振り返る。
すると、かなり離れたところまで走ったにもかかわらず、今ヶ瀬はまだ階段の踊り場あたりに佇んだまま、恭一の姿を見送っていた。
朝の日差しの下、眩しそうに目を細めながら、その甘く端正な顔をわずかにかしげるようにして、じっと恭一の方を見つめている。
彼の表情は静かで、特に普段と変わったことをしているという様子でもない。きっといつも、こうして姿が見えなくなるまで見送ってくれているのだろう。
そう気づいた瞬間、胸の奥が熱くなるような、切なさがこみあげてくるような、言葉にならない感情が恭一の胸に広がった。
今ヶ瀬の姿をよく見ると、ベッドのそばに落ちていた服を慌てて手にとったのか、恭一の部屋着のTシャツとスウェットを身につけている。そして彼にしてはめずらしく、柔らかで真っ直ぐな髪に寝ぐせがついたままだ。
すべてが新しく光っている朝の風景のなかで、その無防備な姿は周囲から浮かびあがるように、やけにあざやかに恭一の目に映った。
無意識のうちに、口元に微笑がのぼる。恭一は、今ヶ瀬のいる方角に向かって、軽く手をあげた。
すると合図に気づいた今ヶ瀬が、一瞬驚いた目をしたあと、みるみるうちに表情をくしゃくしゃとほころばせ、嬉しそうに笑った。
「いとおしい」というのはきっとこんな心持ちなのだろうと、彼のその笑顔を見ながら、妙にはっきりと思う。
しかし、今ヶ瀬はふと我に返ったように呆れた表情になると——けれど目には笑いを残したまま——恭一に向かってなにか伝えるように口を動かしている。しかし、なんと言っているかはわからなかった。
おおかた「早く行け」というようなことを言っているのだろう。恭一はわかったという風に、彼に向かってもう一度手をあげてみせた。
——仕事を終えて家に帰れば、今ヶ瀬が待っている。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。静かな幸福感が、ふつふつとこみあげてくる。
かつて、自分の心を苛んでいたいくつかの事柄——今ヶ瀬と男同士であることや、けれど自分は同性愛者ではないという負い目、おそらく「普通」ではない彼との関係——そんなことは、もうどうでもいいと思えた。
どんなかたちでも彼を心から深く愛していること、そして今、二人で笑いあっていることがすべてだった。それだけで、両手に抱えきれないほどの幸福感で毎日が満たされている。
今日はなるべくはやく家に帰ろう——恭一はそう考えながら、あかるい陽の光に照らされた道を、ふたたび軽い足取りで駆けていった。
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