次々と通り過ぎる人波の向こうに、見慣れた顔がちらりと見えた。その男は誰かがくるのを待っているのか、掲示板のある壁に寄りかかるようにして立っている。
家路につく人々が行き交う駅の構内で、恭一はその姿に驚いて目をとめた。慌てて改札口を抜けると、急いで彼の方へ駆け寄る。
「今ヶ瀬、急にどうした?」
携帯電話に目を落としていた今ヶ瀬は、近付いてきた恭一に気がつくと顔を上げた。
「先輩。会社出たって連絡くれたから、そろそろ着く頃かなって」
そう言いながら端末をポケットにしまい、恭一の顔を見てにこりと微笑む。
「いいのに、わざわざ迎えにこなくても……」
「今日は特別ですからね」
——特別?
恭一は一瞬、そう訝しんだ。確かに今日は、ここしばらく取りかかっていた大きな商談に、ようやく一区切りがついた日だった。
夜の会食や接待も多く、同じく仕事が多忙らしい今ヶ瀬とは、ともに暮らしながらもすれちがいの日々が続いていた。
毎晩、同じベッドで眠る彼の寝顔は見ていたものの、こうしてしっかり顔を見合わせて話すのは、そういえば数日ぶりだ。
それでわざわざ迎えに来てくれたのか、と恭一はおもわず頬をほっと緩めた。
駅の階段をのぼり外へ出ると、気持ちのよい夜気に包まれる。二人はどこかのんびりとした足取りで、家への帰路を歩き出した。
その途中、コンビニエンスストアに目をとめた今ヶ瀬が、ふと立ち止まった。
「やっぱり、ケーキでも買って帰りましょうか」
「ケーキ?……別にどっちでもいいけど。なんで?」
恭一がそう聞くと、今ヶ瀬は呆れたような表情で、恭一の顔をまじまじと見た。
「なんでって……。今日は先輩の誕生日でしょう?」
恭一は一瞬思考を巡らせると、あぁっ!と素っ頓狂な声を出した。ここ数日、仕事の進捗に頭を占められていたせいで、すっかり忘れていた。
そういえば先月から、何か欲しいものがあれば教えてほしい、と今ヶ瀬に言われていたことを思い出す。
「人の誕生日は覚えてるのに、肝心な自分の誕生日は忘れるんだから……」
今ヶ瀬はやれやれといった表情でそう言うと、先に立って歩き出した。
そして、からかうような笑みを浮かべながら、「まさか、自分のトシは忘れてないですよねぇ?」と、振り返って言う。
恭一はむっとしつつ、今ヶ瀬の顔を見返した。この口の減らない男にどう言い返してやろうかと、彼の背を眺めながら思案する。
そしてふと閃くと、今ヶ瀬の隣にさりげなく並び、隙をついてその手を握った。
その瞬間、今ヶ瀬ははじかれたように恭一の顔を見た。うろたえた様子で、すぐに周囲に目を走らせる。
街灯の明かりの下で、戸惑いと嬉しさに揺れている彼の目と、少しの間見つめあった。
「まだ、誰か通るかも……」
ふいに今ヶ瀬は恭一から目を逸らすと、ためらいがちな声で言った。
「俺はそれでもいいけど」
その言葉に、彼の指だけがぴくりと反応する。
「それに、今日は『特別』なんだろ?」
そう言いながら彼の顔を覗きこむと、今ヶ瀬は真っ赤な顔で、ぐっと言葉をつまらせた。その表情を見て、可愛いな、とこっそり思う。
結局、恭一が今ヶ瀬の手を引くようにして、しばらく夜道を無言で歩いた。すると普段はあまり通らない道の前で、今ヶ瀬がふと足を止めた。
「……こっちの人の少ない道がいいです」
蚊の鳴くような声で言うと、恭一の手を小さく引いた。
街路樹が続く公園沿いのその道は、街灯が少なく夜は暗いためか、この時間帯になると人の姿はほとんど見られなかった。
どうせ遠回りをするならと、散歩がてら公園内を迂回するように二人で歩く。
ざわ、と木立の揺れる音に合わせて、緑の匂いの混じった風が周囲を通り抜けていく。恭一は今ヶ瀬と並んで歩きながら、その新鮮な夜の空気を深く胸に吸いこんだ。
「——ねぇ、先輩! なにか欲しいものはありますかって」
人気のない場所に入り、ふたたび威勢を取り戻した今ヶ瀬が、そう言って恭一の顔を覗きこんだ。
「うーん……、特に思いつかないな」
「去年も一昨年もそう言ってたじゃないですか」
「そうだっけ?」
——こうして一緒にいてくれれば、それでいい。
しかしそれは口には出せず、かわりに「それにしても腹減ったな」と言って話題を変える。
しばらくとりとめのない会話を交わしながら、静かな公園内をのんびりと歩いた。木々の間に、丸く低い月がくっきりと見える。
そういえば——去年か一昨年、それとももっと前の年だったか——こんな風に誕生日の夜、二人で手を繋いで帰ったことがあったな、と恭一はふと思い出した。
今ヶ瀬に尋ねてみようか、と口を開きかける。
「——先輩」
「ん?」
そのとき、同じように前を向いて歩いていた今ヶ瀬が、先に恭一に声をかけた。
「今年も…… 誕生日、おめでとうございます」
言葉の響きを噛みしめるように、ゆっくりと言う。恭一と目が合うと、今度はしっかりと視線を合わせたまま、幸福そうな表情で微笑んだ。
「——うん。ありがとう」
木立を抜けた夜の風が、二人の頬を優しく撫でた。恭一は目を細め、その心地よい風を受ける。
そして今ヶ瀬の手を強く握りなおすと、ゆったりとした足取りで、いつもの帰路を二人で歩いていった。
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