その日の夜、恭一は自宅の玄関扉の前で、深く息をついた。鞄をそっと押さえ、自然な声を出せるよう、軽く咳ばらいをする。そして、よし、と気合いを入れ、ドアを開けた。
「ただいま」
するとそこには、帰宅の気配を察したのか、すでに今ヶ瀬が腕組みをして待ち構えていた。おもわず一瞬、ぎくりとする。
「おかえりなさい」
今ヶ瀬はそう言って、いつものように微笑んだ。しかし今日に限っては、目がまったく笑っていない。そのアンバランスさが、整った顔だちもあいまって、凄みのある威圧感を放っている。
恭一は、うん、と答えて靴を脱ぎながら、彼のその剣呑な雰囲気に、つとめて気づかないふりを装った。
そのまま自然に、家にあがろうと試みる。しかし、まだ行かせるものかと言わんばかりに、今ヶ瀬が恭一の前に立ちふさがった。
「それで?」
そして恐ろしげな笑顔のまま、そう切りだす。
「……それでって、なにが」
彼の言いたいことは分かっていたが、まずはいったん、素知らぬふりをしてみせた。
「とぼけないでください!! チョコですよ、チョコ‼︎」
今ヶ瀬は一瞬で顔色を変えると、そう叫んだ。
「どうせ今年も、へらへら受け取ってきたんでしょう。……今ここで素直に白状すれば、まだ罪は軽いですよ」
「罪って……」
あまりの言いように、唖然とする。
「なんでチョコを受け取ったくらいで、犯罪者扱いなんだよ‼︎」
いいから吐け、という無言の圧におされて、しぶしぶ口を開く。
「……部署の子から一つと、あと取引先の人から一つもらったけど……。でも、義理っていうか付き合いだよ、当然だけど」
「ふーん」
今ヶ瀬はしばらく疑いのまなざしで恭一の顔を眺めた後、「まぁいいでしょう」と言って鞄を取りあげ、すたすたと先に居間へと歩いていった。
なんとか、第一関門は無事に突破したようだ。
しかし油断はできない。今ヶ瀬はこの手のことで一度へそを曲げると、じつに怒りがしつこいのだ。
昨年も、女子社員にもらった義理チョコに連絡先のカードが挟まっていたことが、よりにもよって今ヶ瀬が包みを開いた際に発覚し、さんざんな目にあったのだ。
——しかし今年は、俺にも考えがある。
恭一は胸の内でそうひとりごちると、着替えのために一人、寝室へと向かった。
すると、さっそく恭一の鞄をチェックしていた今ヶ瀬から、鋭い声がとんだ。
「ちょっと先輩‼︎ チョコレート、3つ入ってるじゃないですか!」
そして、なかでもとびきり上等なチョコレートを手に、「これは一体、どこの女が寄越してきたんですか」と詰め寄ってきた。
その目が完全に据わっていて、一瞬、怯みそうになる。しかし、ふ、と恭一は小さく笑った。
「それは、俺からお前へのチョコレートだよ」
「え」
「男が男にあげたって、別にかまわないだろう?」
そう言って、にこりと微笑んでみせた。
そして固まっている今ヶ瀬に、「俺たち、付き合ってるんだからさ」と、さらに言葉をつけ足す。
「先輩……‼︎」
今ヶ瀬はたちまち感極まったように目を潤ませると、恭一にがばりと抱きついた。
「女からのチョコは、もちろん全部没収しますけど、こっちは後で一緒に食べましょうね!!」
それから機嫌よく「ごはん、すぐにあっためますね」と言い、いそいそとキッチンに向かっていく。
その背中を笑顔で見送りながら、恭一はそっと、勝利の拳を握りしめた。
『これからは毎年、この作戦でいこう——!』
長年の攻防のすえ、ようやくバレンタインを攻略できた達成感を噛みしめつつ、ひそかにそう決意したのであった。
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