Title:Sign


「ごちそうさま。美味かったよ、ありがとな」

恭一は今ヶ瀬に微笑みながらそう言うと、そそくさと流しに食器を下げ、PCの前へと戻っていった。

大口の顧客に対するプレゼンが明日本番を迎えるらしく、資料の最終確認をしているのか、休日だというのに朝から夕方のほぼ一日中、PCに向かいっぱなしだ。

食器をあらかた片付け終わり、今ヶ瀬が居間に戻った今も、一向に作業が終わる気配がない。今ヶ瀬は、そんな恭一の後ろ姿を少し恨みがましい目で見やった。

いつもだったら、二人で映画を観たりしてのんびり過ごす時間なのに……と少々不満に思いながらも、一人で別のことをする気にもなれず、恭一のいるデスクから少し離れたソファに寝転がりながら、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めた。

「ねぇ、先輩」

ふと、気になる記事を見つけた今ヶ瀬は、恭一の背中に声をかけた。

「これ、なんのサインか知ってます?」

今ヶ瀬は悪戯っぽい笑みを浮かべて、中指と薬指を折り曲げた手のサインを恭一に示す。恭一はちらりと今ヶ瀬の方を振り返ると、怪訝な表情で今ヶ瀬の手元を見つめた。

「ん……?あれだ、『グワシ!』だろ?」

「全然違いますし、ていうかそれ、若い子には絶対通じませんから気をつけた方がいいですよ。……じゃなくて、これ、『愛してる』のハンドサインなんですって。それぞれの指が、I、love、youの手話を意味しているとか」

指を動かしながら意味を説明する今ヶ瀬に、恭一は「ふーん」と興味なさそうに一言返すと、すぐにPCの方に向き直ってしまった。

反応が薄い。普段、愛の言葉など滅多に口にしない恭一に、こういうやり方で俺に愛を伝えてくれてもいいんですよ?などと言ってからかうつもりだったが、すでにモニターに集中している様子の恭一にそれ以上絡むのは諦め、さっさとスマートフォンに視線を戻す。

こうして、恭一が黙々と作業しているそばでぼんやりと過ごす時間が、しかし今ヶ瀬はそれほど嫌いではなかった。

31歳の若さで管理職に抜擢されるだけあって、恭一は実際、努力の人だ。目標を決めたら、それを達成するためにやるべきことを定め、大変そうな様子も見せず淡々とこなしていく。

学生時代からそうだった、と今ヶ瀬はふと思い出す。

サークル仲間と談笑したりふざけたりしていたかと思えば、図書館や講義室で一人静かに机に向かっている姿をよく見かけた。

本人はただやるべきことをやっているだけで、大したことはしていないと言うが、声高に主張するでもなく努力を重ねることを苦としない恭一の姿勢が、今ヶ瀬は好きだった。

明日が勝負の日だというなら、客にウケの良さそうなコーディネートでも選んでおいてあげようと、今ヶ瀬はソファから起き上がり、クローゼットを開けた。


「先輩、忘れ物はないですか?スマホと鍵、ちゃんと持ってますよね?」

今ヶ瀬は、靴紐を結んでいる恭一の後ろ姿にそう声をかけると、自分は財布を片手に、近所用にしているサンダルに足を突っ込んだ。

「大丈夫だって。心配性だなぁ……」

濃い眉に二重の目が拗ねたように今ヶ瀬を見る。濃紺のスーツに今ヶ瀬の選んだ海老茶色のネクタイを締めた姿が、憎たらしいほど格好良い。

若い頃は優柔不断と捉えられがちであった柔らかな物腰は、ここ数年で成熟した優しさを強く感じさせるようになっていた。年々、恭一がいい男になっていくようで、今ヶ瀬は内心、気が気ではない。

ふと、鞄を掴む恭一の淡いブルーのシャツの袖口から覗く手首と、その先に続く筋張った手に目を奪われる。この手が、ベッドの上で今ヶ瀬に施すあらゆる愛撫を思い出し、慌てて目を逸らした。

「先週、鍵を忘れて駅前のマックで待ちぼうけくらってたのは誰でしたっけ?ほんと、仕事以外は抜けてるんですから」

そんなことを言い合いながら、二人はマンションの階段をリズミカルに降りていく。

今ヶ瀬は調査員という仕事柄、就業時間の縛りがゆるやかなこともあり、こうして恭一を自宅最寄駅の改札まで見送りがてら、駅前のスーパーで買い物をして帰るというのが、いつの頃からか習慣となっていた。

自宅から駅まで徒歩10分程度の道を、住宅街を突っ切るように進んでいく。

普段であれば、通りすがりの家の軒先に咲いている花のことや職場でのちょっとした話、夕飯のメニューのことなど取り留めもなく喋ったりするが、今日の恭一は、仕事の段取りでも考えているのか、いつもより言葉少なに歩いてゆく。

今ヶ瀬も無理に話しかけることはせず、淡々と隣を歩く。話していても黙っていても、恭一のそばにいると居心地がいいのは、昔から変わらない。

あの雪の日から数年、内臓の灼けるような恋情に振り回され、常に情緒不安定だった今ヶ瀬に愛想を尽かすこともなく、今ヶ瀬自身が驚くほど、恭一は根気強く隣にいつづけてくれた。

今、昔以上に強く、しかし穏やかな愛情を持ってそばにいられる幸せを噛み締めながら、今ヶ瀬は恭一に気づかれない程度に、少し寄り添った。


「それじゃ、気をつけて。……プレゼン、上手くいくといいですね」

通勤客や学生でざわめく駅の改札前。パスケースを片手に改札口に向かう恭一に今ヶ瀬が声をかけると、恭一は微笑を返した。

「うん、いってくる。また夜に」

改札を抜け、ホームの階段へといつも通り歩いていた恭一だったが、突然、ふと思いついたように立ち止まると、くるりと今ヶ瀬の方を振り返った。

彼の後ろ姿を見送っていた今ヶ瀬は、怪訝な表情で恭一を見つめた。やはりなにか忘れ物でもしたのだろうか?

今ヶ瀬と目を合わせた恭一は無表情のまま、他の人には気づかれないほどさりげなく、中指と薬指を折り曲げた手のサインを、今ヶ瀬に向かって振ってみせた。

今ヶ瀬の頭に、この瞬間まで忘れていた昨夜のやりとりが蘇る。

"これ、「愛してる」のハンドサインなんですって。それぞれの指が、I、love、youの手話を意味しているとか——。"

驚きで固まっている今ヶ瀬に対して、恭一は目だけで悪戯っぽく笑ってみせると、今度こそホームの階段を降りていった。

——あの人は……!本当に、敵わない。

まんまと驚いてしまった悔しさと、目眩がするほどの幸福感で、耳が熱くなっていくのを感じる。

口にした自分さえ忘れていたような会話を恭一が覚えていてくれたこと、そして自分がそれを話題にした意図を恭一が汲み取ってくれていたことに、ゆっくりと嬉しさがこみ上げる。

口元を引き締め、表情が緩まないようにポーカーフェイスを保ちつつ、今日の夕ご飯はあの人の好きな生姜焼きでも作ろうかな……と考えながら、今ヶ瀬は駅の出口へと足取り軽く歩いていった。

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