Title:傘


店の中へ入ると、自動ドアから軽快なチャイム音が鳴り響いた。目の前の注文カウンターに客は見当たらない。たまきはそのままカウンターへと向かい、紅茶を一つ注文した。

会社のある街から数駅ほど離れた、駅前のファーストフード店。

電車通勤のたまきが、普段は下車することのないこのエリアで降りたのは、美奈の設定した合コンに参加するためだった。

本当なら美奈と一緒に、会社から会場のレストランへと向かうはずだったが、残業になってしまった美奈を待つために、とりあえず目についたこの店に入ったのだった。


トレイに載せられた紅茶のカップを受け取り、2Fの飲食フロアへと向かう。

フロア内にはBGMが小さく流れているだけで、外のざわめきも届かない。一人客が目立つ店内で、客たちはそれぞれ静かに過ごしている。

交差点に面した大きな窓際に空席を見つけると、たまきはハンドバッグとコートを椅子に置いて腰かけ、小さくため息をついた。

仕事終わりの疲れもあったが、合コンにどうしても気が進まない。恭一と別れてから一年、失恋の傷はだいぶ癒えてきたものの、まだ誰かと付き合いたいとは思えなかった。

たまき自身はそれで構わないと思っていたが、美奈の強い勧めを無下に断ることもできず、今夜は参加することにしたのだった。


カップを手のひらに握りながら、紅茶を飲むともなく窓の向こう側へと目を向ける。

大学生らしき集団や談笑するカップル、目的地に向かって一心に歩くサラリーマンたちが、次々と眼下を通り過ぎていく。

無声映画のような光景をぼんやりと眺めていると、路上に設けられた喫煙エリアに、見覚えのある人物がいることに気がついた。

黒のブルゾンを羽織り、細身のパンツに脚を包んだ姿の男性が、喫煙エリアのベンチに腰掛け、ゆったりとした仕草で煙草を吸っている。

すぐに、恭一の友人の今ヶ瀬だと分かった。そういえば一年前、ストーカーに襲われた日に助けられて以来、一度も会っていなかった。

今から店を出て声をかけ、当時のお礼を伝えようかという考えが頭をよぎる。しかし、急に話しかけるのもおかしいかと思い直し、椅子に腰を落ち着けた。

たまきの位置から、足を組んで座っている今ヶ瀬の、中性的で整った横顔がよく見えた。

髪と同じく少し色素の薄い目は、道行く人々へと向けられている。のんびりとした動作で煙草を口元から離すと、形の良い唇からするすると煙が吐き出された。

どこか殺伐とした雰囲気の漂う喫煙エリアの中で、今ヶ瀬は一人だけ別の場所にいるかのように優雅に見えた。

彼は誰かと待ち合わせをしているのか、時折、腕時計を覗くような仕草をしている。待ち合わせ相手はもしかすると恭一かもしれない。

不意にたまきは、記憶の中に焼きついている、白い灰皿のことを思い出していた。


以前付き合っていた恋人が、唯一残していったという灰皿。

たまきが頻繁に家に出入りするようになってからも、恭一がよく作業をしているPCのそばに、それはいつも置いてあった。

床に座らせるのは悪いから、とたまきのためにダイニングセットを用意するような恭一が、以前の恋人が使っていた物を意味もなく置き続けているとは思えなかった。

喫煙者ではない彼にとって、灰皿など必要な筈もない。きっと、かつての恋人の存在を示す唯一の物を、どうしても捨ててしまうことができなかったのだろう。

恭一の前では顔に出さないようにしていたものの、いつまでも彼のそばにあるその灰皿が、やはり心に引っかかっていたのだと思う。いつの日だったか、愚痴に聞こえないように美奈に打ち明けたことがあった。

「今はたまきと付き合っているのに無神経だ」と美奈は自分のことのように怒ってくれたが、一緒になって恭一を責める気になれなかったのは、あの日、恋人との別れに徹底的に打ちのめされていた彼の心に、自分がつけ込んだと分かっていたからだった。

過去を引き摺っていることを嘆いたり責めたりしてしまえば、きっと恭一は自分の元から去ってしまうだろうと知っていた。

それよりも、その過去が今の彼を作ったのならば、それも含めてすべて受け入れようと思った。そう踏ん切りがついた時、やっとたまきは、穏やかな気持ちでその恋人について尋ねられたのだった。


上司と部下の間柄の頃から、恭一は親切で優しい男だったが、付き合ってからもそれが変わることはなかった。

ただ、そんな性格の恭一が一度だけ、乱暴にたまきを抱いたことがあった。

あれは確か、当時悩んでいたストーカーのことを打ち明けた日の夜、いつもなら行為の際に必ず同意をとる恭一が、急に押し倒すようにたまきを抱いた。

まるで、なにかを必死に振り切ろうとするかのように。

強引になされるがまますべてが終わった後、恭一は謝罪してくれたが、彼の方がよほど沈んだ暗い表情をしていて、たまきはしばらく返す言葉を見つけられなかった。

——あのとき、彼はどうしてあんな風に自分を抱いたのだろう。

それは、恭一に優しくされ幸せだったかつての記憶の中で、ただ一つ不可解な思い出として、今でも心に残っていた。


ふと、今ヶ瀬の視線が動いた。

視線の先を辿ると、たまきの予想通り、スーツ姿にネイビーのコートを羽織った恭一が、今ヶ瀬の方へ足早に向かっているところだった。

きっと待ち合わせの時間に遅れているのだろう。少し焦った様子で歩いている。

すると突然、何も障害物のないはずの道で、恭一が思いきり転倒した。

道行く人々の視線が、一斉に恭一に集まった。たまきも驚いて、ついまじまじと彼を凝視する。

そして今ヶ瀬も、目を丸くして恭一を見つめた後、呆れと笑いと心配を混ぜたような複雑な表情を浮かべながら、彼に小走りに近づいていった。

膝をはたきながら立ち上がる恭一の手を引き、何か話している。恭一はこちらに背を向けていて顔が見えないが、今ヶ瀬の楽しそうな様子から、二人の親密さが伝わってくるようだった。

そして、不意にこぼれるように笑った今ヶ瀬の表情に、たまきの目は釘づけになった。

——今ヶ瀬さん、あんな風に笑うんだ。

今ヶ瀬は決して無愛想な男ではなかったが、口元は微笑んでいても、いつもどこか冷静な目をしているのが印象的だった。

しかしその表情は、見ている者が切なくなるほど、堪えきれない喜びが眼差しから滲むような、屈託のない笑顔だった。


そのとき、何かがたまきの心をこつんと打った。

彼の表情に、ふと既視感を覚える。いつか、どこかで、同じような笑顔を見たことがあった。

既視感の正体を確かめようと、記憶の抽き出しを探り、手掛かりをたぐり寄せる。そして唐突に、既視感の正体に行き着いた。

たまきの脳裏に浮かんだのは、かつて恭一と訪れた水族館で撮った、彼と自分のツーショットの写真だった。

今でも捨てられずにしまってあるその写真の中で、恭一の隣に寄り添い、心から幸せそうに、満面の笑みを浮かべている自分の顔。

それは、恋をしている人間の顔だった。


その瞬間、一つの確信が閃くようにたまきを捉えた。しばらく頭の中が空白になり、言葉が浮かんでこない。

恭一がずっと想い続けていた相手は、今ヶ瀬だったのか——。

かつて、付き合っていたはずなのに「彼女はいない」と言っていた恭一。

“結婚はできない相手”、“難しい道”……。

過去の言葉の断片が反響し、瞬く間に一本の線に繋がっていく。

それでは、恭一はゲイだったのだろうか?

次に頭に浮かんだその考えを、たまきは即座に打ち消した。同性愛者でも、異性と結婚したり性交渉を持てる人がいると聞いたことがあったが、恭一はそうではないだろうと、なぜか強く感じた。

別れの日、ひどく苦しげに言葉を連ねていた彼の姿を思い出す。

恭一にとって、あのままたまきと付き合い結婚する方が、おそらく自然な道だったに違いない。かつて号泣してしまうほど打ちのめされていたにも関わらず、一度は今ヶ瀬と別れてしまったのは、本来、恭一が異性愛者だったからだろう。

その思いつきに根拠があるわけではなかったが、いっときでも恭一を愛し、共に過ごしたたまきにとって、それは勘ではなく確信だった。

恭一のある部分は、確かにたまきを求めていた。しかし、それを断ち切るほどの激しい恋情が、彼をたまきの元から連れ去っていってしまった。


たまきはカップをテーブルに置き、ゆっくりと息を吐いた。

不思議と、騙されたという不快感はなかった。それよりも、自分がようやく、長い間目の前にあった事実に辿り着けたことに、深く安堵していた。

雪が降っていたあの日、傘もなく病室を出て行った恭一の後ろ姿が脳裏に蘇る。

今ヶ瀬と再会した日に何が起こったのかは分からなかったが、恭一はもう、すべてを捨てることにしたのだろう。

たまきとの安定した生活、普通の幸せや未来を全部。ただ、今ヶ瀬と生きていくために。

お互いの存在だけを頼りにして、祝福もなく永遠も誓えない二人は、これからどうしていくのだろう。彼らは幸せになれるのだろうか?

たまきには分からなかったし、そうなってほしいと祈る気にもなれなかった。

ただ、もしいつかその恋が終わってしまうのだとしても、最後に残るものがどうか絶望ではないことを、その瞬間、心の底から願った。


ふと窓の外に目を戻すと、二人の姿は景色のどこにも見当たらなくなっていた。

そのとき、テーブルの上のスマートフォンが短く振動した。会社を出てこちらに向かっているという美奈のメッセージが画面に映っている。

たまきは、美奈が到着する前にメイクを直しておこうと、ハンドバッグを手に立ち上がり、化粧室へと向かっていった。

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