Title:夕方の光


それが恭一に対する何度目の言いがかりなのか、今ヶ瀬自身にももう、分からなかった。

きっかけは、いつも大抵、些細なことだ。二人でのんびりと映画を観ていた休日の午後、恭一の携帯電話が震えだしたのが今回のはじまりで、それ自体は特に珍しいことでもなかった。

震える携帯電話をちらりと見て、ごめん、と席を立った恭一を横目に、今ヶ瀬は手元のリモコンの一時停止ボタンを押した。

少し離れた場所で通話している恭一の電話口から、かすかに女の声が漏れ聞こえた。しかし、それはあきらかに仕事の連絡で、恭一は淡々と報告をうけながら、時折指示を出している。

休日なのに野暮な電話だ、とはじめは無関心を装っていたが、やりとりの最後、「ありがとう」と微笑を含んだ恭一の声が聞こえた瞬間、かっとなった。

「悪いな、止めて待っててくれたのか」
「——俺、もういいです」

隣に戻ってきた恭一と入れ替わるように、ソファから立ち上がる。すかさず、恭一に腕をつかまれた。

「……急にどうしたんだよ。さっきの電話なら仕事だったんだ」
「わかってます、そんなこと」
「じゃあ、なに」

今、自分の抱えている怒りが理不尽だということは、嫌というほど分かっていた。無言で手を振りほどこうと力をこめるものの、恭一は理由を聞くまで、手を離してくれそうにない。

「……なんで、ありがとう、なんて言うんですか」

しばらく恭一と睨みあったあと、今ヶ瀬は観念して呟いた。

「なんでって……。彼女は、俺の代わりに取引先のクレームに対応してくれたんだよ。だから」

どうしてそんなことを聞かれるのか、本当に分からないのだろう。困惑ぎみに説明する恭一の言葉を途中で遮るように、激しくかぶりを振る。今、聞きたいのはそんなことではなかった。

数年前の休日、恭一の部屋を訪ねてきたたまきと、彼女を追いかけるために駆け出ていった、恭一の後ろ姿を思い出す。あのとき、残された部屋で感じていた暗い予感が、ずきりと胸に蘇った。

恭一のことを見つめ続けた学生時代から、たとえ彼の隣にいることはできなくても、彼の美点を誰よりも理解しているのは自分だと思っていた。

——恭一は昔から、誰に対しても隔てなく優しい。

そんな男だからこそ、何年経っても忘れられないほど、心の底から好きになったのだ。なのに、今はその優しさが許せなかった。

「休日にわざわざかけてくるなんて、貴方に気があるんじゃないですか」
「ただの業務連絡だよ。万一、仮にそうだとしても、俺にそんなつもりはない」

これまで、今ヶ瀬が恭一と女性との関係を疑うと、どこか取り繕うような態度をとっていたのに、最近は真剣な目と声で、はっきりと否定するようになっていた。

恭一は確かに変わった。そんな彼を信じたいと思っているのに、信じ方が分からない。こうして、ままならない不安をぶつけることしかできない自分自身が、たまらなく嫌だった。

——どうせ、いつか女のもとに戻るくせに。

ふいに喉元までせり上がったその言葉を、なんとか飲みこむ。それは本心のようで本心ではない、ただ恭一を傷つけたいだけの言葉だった。

「……もういいから、手を離してください」

恭一から顔をそむけたままそう吐き捨てて、その場を離れた。


寝室に逃げこむと、一瞬の激昂は鉛のような自己嫌悪に変わり、身体が重くなる。今ヶ瀬はベッドにうつぶせに横たわり、枕に顔をおしつけた。

するとたちまち、目の奥の熱く痺れる感覚とともに、涙がだらしなくこぼれた。枕カバーに涙が吸いこまれるのを感じながら、嗚咽を殺し、呼吸が落ち着くのをじっと待つ。

二人で使っているセミダブルのベッドは、どこを向いても恭一の匂いに満ちていて、ささくれだった心が、少しずつ落ち着いていった。


それからどのくらいの時間が経ったのか、寝室のドアがかちゃりと開いた。恭一が、部屋の中を静かに歩く気配がする。

彼は閉めきっていたカーテンと窓を開けたあと、ベッドのそばにしゃがみこんだ。そして、枕に突っ伏した今ヶ瀬の頭に、そっと手を載せた。

ゆっくりと髪を撫でる、そのあたたかな手に根負けして、恭一の方に顔を向けた。泣きはらしたまぶたに、窓から入ってきたぬるい風があたり、ふっと張りつめていた気持ちがゆるむ。

「男前が台無しだな」

普段どおりの口調で、恭一が口を開いた。彼の顔を見上げると、いつもの穏やかな目でこちらを見ている。

「どうせひどい顔ですよ」

嗚咽に掠れた声で、今ヶ瀬も調子をあわせた。

「お前は、いつも可愛いよ」
「……可愛いって言えば、俺がいつでも喜ぶと思わないでくださいね」

むっとした表情で答えると、「お前って案外ちょろいよな」と眉を上げ、茶化すように言う。

「貴方にだけは言われたくないです」

恭一が、はは、と可笑しそうに笑う。そして、シーツに投げ出していた今ヶ瀬の手をとり、さりげなく握った。

夕方のサイレンが、窓の外からかすかに聞こえてくる。そのまま二人で、部屋に斜めに差しこむ西日と風に揺れるカーテンを、ぼんやりと眺めた。

恭一の手のぬくもりと、優しい沈黙に勇気を得て、今ヶ瀬はぽつりぽつりと話しだした。

「貴方が本当に俺のものになってくれたんだって、まだうまく実感できないんです」
「お前にいらないって言われるまで、ずっとそばにいるよ」

先ほどとは違う種類の涙が、目の縁ににじんで落ちる。その涙を恭一の指に拭われ、そのままかがみこんだ彼と口づけた。

唇を離したあと、「ちょっとしょっぱい」と言って、恭一が笑った。


——この男が、死ぬほど好きだ。

恭一の隣にいる限り、同じような不安と恐怖に、また何度でも襲われるのだろう。それでも、以前のように逃げ出すことはできなかった。

恭一との恋愛に未来があるのか、今の今ヶ瀬には、あまりにも茫漠として分からなかった。でも、もしいずれ終わってしまうなら、もうひとときも離れていたくない。

諦めと愛おしさの混じった笑みが唇に浮かび、今ヶ瀬は泣き笑いの顔で微笑んだ。その表情を、恭一はただ黙って、じっと見ていた。

夕方の光が部屋からいっぺん残らず失われるまで、二人は言葉もなく寄り添ったまま、手のひらを通じておたがいの体温を移しあっていた。

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