真夜中に、突然、はっと目が覚めた。息苦しさを覚えるほど、心臓がはげしく音を立てている。
物音もなく静まりかえった寝室のベッドの中で、今ヶ瀬は仰向けの姿勢のまま、こわばった身体で横たわっていた。動悸がおさまるのを待ち、ゆっくりと深呼吸をする。
夢を見ていた。嫌な夢だった——。暗澹とした気持ちで、わずかに寝返りをうつ。
それはいつの頃からか、時折、見てしまう夢だった。顔の見えない相手に向かって、自分はなにかを激しく、号泣しながら責め立てている。
頭を支配しているのは、大切なものに裏切られたという深い哀しみと、その哀しみをかばうように掻き立てられる、強烈な怒りだ。
この夢のいちばん嫌なところは、なによりその結末だった。夢の最後、心底こちらを軽蔑したように去っていくその相手は、気がつけばいつも、恭一の顔に変わっているのだ。
そのことに気づいた瞬間の、心臓が凍りつくような驚愕と恐怖——
どうして嫌な夢ほど、あんなにリアルなんだろう。現実のように生々しいその情景が、今も目蓋の裏側にはりついているようだった。
いつのまにか、全身にじっとりと汗をかいている。身をよじり、ベッドサイドの時計に目をやった。午前2時43分。
同じベッドの隣には、恭一が眠っているはずだった。今ヶ瀬はベッドを揺らさないように気をつけながら、そろそろと身体を起こした。そうしてそっと、彼の顔をのぞきこむ。
恭一は、静かな寝息をたてて眠っていた。カーテンの隙間から差し込むかすかな街灯の明かりが、その顔に淡い陰影をつくっている。
今ヶ瀬は、目の前の現実を確かめるように、恭一の寝顔にじっと見入った。
眉、まぶた、鼻筋、唇——なじみ深く愛おしいひとつひとつのかたちに、指で触れたい気持ちをぐっとおさえる。
決して目立つタイプではないが、優しげで端正な、彼の顔立ちが好きだった。学生時代に一目惚れをして以来、今もそれは変わらない。
——時間が経った。
彼の寝顔を眺めているうちに、ふと、そんな唐突な感慨が胸をかすめる。恭一とはじめて出会ったとき、自分は18歳で、彼は20歳だったのだ。あれからもう、10年以上も時が過ぎた。
目の前にあるのは、決して短くはない、それらの歳月が降り積もった男の顔だった。20代の新緑のような若々しさのかわりに、30代も半ばの今、その年齢らしい落ち着きを滲ませている。
——男ぶりという点では、昔より今の方が上がってるな。
今ヶ瀬は心の内で臆面もなくそう結論づけると、ふたたびそろりとベッドにもぐりこんだ。
そして、恭一の腕に軽く頰をつけるようにして横たわり、ぼんやりとする。無理に目を瞑っても、眠れないことはわかりきっていた。
物音もなく、しんとした寝室の中で、恭一の静かな呼吸音だけが響いている。
嫌な夢を見て、こうしてじっと時間をやりすごしている夜は、考えても仕方のない不安や心配事が、とめどなく膨らんでいくような感覚におそわれる。
——恭一は、たまきではなく自分を選んだことを、後悔してはいないだろうか。
それは、恭一とともに生きるようになって数年の歳月が経ち、彼に大切にされていると感じる今でも、日暮れの薄い影のように今ヶ瀬の胸に時折差す不安だった。
かつて、彼女が恭一の前に現れはじめた頃。
少しずつ二人の距離が近づいていくように感じることが、内心、不安でたまらなかった。彼女の存在がちらつくたびに、無性に苛立ち、言葉を荒らげる自分を見て、恭一はいったい何を思っていただろう。
しかしあの頃、自分が本当に恐れていたのは、たまきの存在そのものではなかった。
心の底から怖かったのは、何度打ち消そうとしても、恭一とこのままずっと一緒にいられるのではないかと考えてしまう、自分自身の無謀な未来への期待だった。
いつか恭一の前に「運命の女」が現れたときは——そのときは彼の前からスンナリ消えると、自分はたしかに、かつて恭一にそう言ったのだ——そもそもはじめは、いずれ女と幸せになる彼の唯一の男になれるのなら、それで十分なはずだった。
しかし、一過性のあやまちで終わらせるには、恭一はあまりにも優しすぎた。
日に日に深まる想いのはてに彼を失ってしまうこと、そのときに突き落とされるにちがいない絶望を想像すると、恐怖に足は竦みきり、もう一歩も進むことができなかった。
かりにあのまま——たまきのことも見ないふりをして——ほんの少し進めたとして、彼と一緒に、いったいどこへ行けただろう?
男二人で、なんの覚悟も誓いもなく、辿り着ける場所もないのに——
けれど、どうしても離れることができなかった。そしてなぜか恭一は、結婚まで考えていたたまきと別れ、こうして自分と一緒にいる。
嫉妬深く陰険で粘着質な(言われるまでもなく、自覚はあった)ゲイの自分などよりずっと、彼女といた方が幸せになれただろうに。
妙な男だと、あらためて思う。そして今、当然のように自分が彼の隣に横たわっていることに、ふと奇妙な違和感を覚えた。
実際に手にしているはずの現実の手応えが、ふたたびするすると意識から遠のいていく。
そのとき、眠っているはずの恭一の口から、まつげ、と言うかすかな声が聞こえた。唐突なその言葉に、今ヶ瀬はびくりと驚いて顔を上げた。
すると、恭一は今度ははっきりと「まつげ、くすぐったい」と、寝起き特有の甘く掠れた声で口にした。
彼のむき出しの腕に頰を寄せていたせいか、まばたきのたびに自分の睫毛が肌をくすぐっていたらしい。慌てて、彼の腕から顔を離す。
「——ねむれないの?」
そう言いながら、恭一が今ヶ瀬の方へ寝返りをうった。まだ半分、眠りの中にいるような、どこか子どもじみた声。
「いえ……。起こしちゃってすみません」
貴方に軽蔑され、去られる夢を見て起きたのだ、とは言えなかった。
恭一は、そう言ったきり黙りこんだ今ヶ瀬の姿を、しばらくぼんやりと眺めていた。しかし、彼の普段と違う様子に気がついたのか、腕を上げ、静かな声で「おいで」と言う。
たちまち今ヶ瀬の心中に、泣きたくなるほどの安堵が広がった。恭一の懐にもぐりこむと、全身をくるまれるようにあたたかく抱擁される。
その瞬間、不覚にも本当に涙がわきあがり、慌てて彼のTシャツに顔をこすりつけた。これではまるで子どもだ、と恥じながら、それでも嬉しいことにかわりはなかった。
二人で抱きあったまま、しばらくごそごそと体勢を調整する。今ヶ瀬が恭一の腕の付け根あたりに頭を落ち着かせると、前髪のそばに彼の鼻先が寄せられた。そのまま額の上に、軽く口づけされる。
そして脚までしっかりと絡めあうと、恭一はあらためて今ヶ瀬の身体を、力強く抱きしめた。時折、彼を安心させるように、その髪をゆっくりと撫でる。
そうして撫でられるたびに、恭一にいとおしまれている幸福感が、震えるようなよろこびとなって身体中に満ちていくようだった。
恭一のあたたかな体温に、恐怖に冷えた手足のこわばりが、みるみるうちにほどけていく。深く深呼吸をすると、間近に恭一の肌の匂いがして、おもわず満足げなため息が漏れた。
恭一になにか伝えたい気がするのに、頭がぼんやりとして、うまく言葉がでてこない。先輩、と一言だけつぶやく。
すると、なに。と恭一が静かに言葉を返した。言葉にならない自分の思いを、すでに知っているかのような落ち着いた声。
もう、なにを言う必要もなかった。居心地のよい沈黙のなか、こうして深夜にひっそりと、二人で抱きあっている幸福感に身を委ねる。
しばらくすると、恭一は今ヶ瀬を抱きかかえたまま、ふたたび静かに寝息をたてはじめた。
今ヶ瀬は、彼が眠りについた気配を感じると、目の前の胸元に顔を寄せ、その心臓の音に耳を澄ませた。
あたたかく脈打っているその鼓動に、身体中の力が抜けるほど安心する。しかし同時に、いつかこの音も止まる日が来るのだと、ふと恐ろしいような気持ちになり、耳を離した。
——このままひとつになれればいいのに。
ひどく切実な感情が、その瞬間、強く胸にこみあげる。
そうすれば、このどうしようもない寂しさも解消されるだろうか。
今ヶ瀬は、こうして恭一と絡みあったまま、境目もなく彼と溶けあい、ひとつになるところを想像した。たとえ自分の身体はなくなっても、恭一の中であらゆる感情を共有し、死ぬときは一緒になって消えるのだ。
それは案外、幸せなことのように思えた。
——でもそうなると、この男とセックスできないな。
ふと、そんな思いが頭をよぎる。それは困る。真剣に、そう思い直した。
恭一と深い関係になって何年も経つが、彼とのセックスには飽きるということがなかった。
その事実は、実際のところ決して少なくない性体験をもつ今ヶ瀬にとって、ひどく驚くべきことだった。
これまで、同じ相手と寝続けることは、どちらかというとつまらない——まれに好きでもない相手が入れこんでくることもあり、そういう場合はかえってわずらわしい——ことだと思っていた。
ただ一時の寂しさと性欲を解消するため、後腐れのない、一夜かぎりの男を選んで寝ることもたくさんあった。
しかし、自分の身体を熟知している男と交わることは——そうしてそれが、心から愛している男であれば——むしろ肌を重ねるほどに、その行為は深く心を満たすものだということを、今ヶ瀬は恭一との関係を通して、はじめて知ることができたのだった。
おたがいの衝動のまま、慌ただしくおこなうことも勿論あったが、ゆっくりと時間をかけて愛しあうそのとき、恭一は何度でも、今ヶ瀬のあらゆる場所を指先でなぞり、そのかたちのひとつひとつを唇で確かめた。
そうして彼の反応から敏感な箇所を察知すると、丹念に指や舌を這わせ、みるみるうちに絶頂へといざなっていく。
そのひどく念の入った愛撫は、恭一自身の性欲からなされることというより、むしろ彼の、確固とした一つの意思によってなされるように感じられた。
まるで「愛してる」と言葉ではなく身体で伝えようとするかのようなその愛撫に、全身の肌が否応なく震え、行為が深まるほどに激しく反応する。
それはやがて、ひとつの巨大な波となって今ヶ瀬の理性のすべてを飲みこみ、あっという間に足のつかない場所まで押し流した。
あとはただ、意識を手放さないよう必死にシーツにしがみつきながら、自分でも驚くような声をあげて、ひたすら彼の与えてくれる強烈な快感に溺れるしかなかった。
かつて、彼に男の抱き方を教えたのは自分だったが、そんな風に、セックスをつかった愛情の伝え方を教えてくれたのは恭一だった。
反対に自分が彼を抱くときは、同じように気持ちをこめて、恭一の身体のすみずみを愛した。
その行為のもたらす圧倒的な幸福感は、愛する人間とおたがいを深く慈しみあうよろこびで——異性や同性といったこととはまったく無関係に——二人の心と身体を隙間なく、どこまでも満たしたのだった。
——だめだ、目が冴えてきてしまった。
セックスの際に恭一がほどこすあらゆる愛撫を鮮明に思い返し、今ヶ瀬はそっとため息をついた。このまま横になっていても、とても眠れそうにない。
いっそのこと、一度ベッドから出てしまおうか。
しばらく逡巡した末に、今ヶ瀬はそう決心すると、そろりと身体を動かした。恭一を起こさないよう、慎重に彼の腕の中から抜け出す。
そうしてベッドから起き上がろうとした、その瞬間だった。
驚くほど強い力で恭一に服を掴まれ、枕元に引き戻される。おもわず腕を支えていた手がすべり、ばふり、と布団の上に倒れこんだ。
体勢を立て直す暇もなく、恭一が身体の上にのしかかってくる。首をひねって彼の顔を見ると、恭一は覚醒する様子もなく、すうすうと寝息をたてていた。
今ヶ瀬が無言でもがいていると、いったいどんな夢を見ているのか、今度はもがく今ヶ瀬を押さえこむように、首元にしがみついてくる。
どこまで寝ぼけるつもりなのかと呆れつつ、徐々に笑いがこみあげる。今ヶ瀬はベッドから起き上がることをあきらめ、そっと笑い声のようなため息をついた。
嫌な夢の残像は、気がつけばいつの間にか、すっかり頭の中から消え去っていた。
今ヶ瀬は「重いから離れてください」とつぶやきながら、恭一の身体に腕をまわして抱きつくと、やすらかな気持ちで目を瞑った。
Comments