その日の発端は、診察券だった。
それはめずらしく二人の休日が重なった日の昼下がりで、思いきり朝寝を満喫し、遅い朝食を食べた二人は、穏やかな午後の時間を過ごしていた。
名前のつけられない関係から、まがりなりにも恋人関係になって半年目。季節は、最初の夏を終えようとしていた。
「今ヶ瀬、俺の歯医者の診察券知らない?」
先ほどから財布や鞄をごそごそと探っていた恭一が、キッチンにいる今ヶ瀬の背中に声をかけた。
「診察券……? 知らないですけど。そういうのって普通、財布に入れておきません?」
食器を洗っていた今ヶ瀬は手を止めないまま、水音に負けないよう少し声を張りあげ、恭一を振り返った。
「そうなんだけど、ないんだよなー…」
そろそろ予約したいんだけど、とぶつぶつ言いながら、恭一はクロゼットにかけてあるジャケットのポケットをのぞいたりしている。
しばらく放置することにしたものの、恭一はいつまでもうろうろと、あてもなさそうに探しまわっている。一向に見つかりそうにないその気配に、今ヶ瀬は小さくため息をついて水を止めた。
手を拭きながら、居間の片隅にかけてある、色の褪せかけたレターラックを手にとる。いつからその状態なのか、古いはがきや封書、開封もされていないダイレクトメールなどが、そこに雑然と入れられていることを知っていた。この中に入っているんじゃないかな、と思いついたのだ。
この機会に整理してしまおうと、今ヶ瀬はテーブルの上でレターラックをひっくり返した。中身がばらばらと机上に広がる。すると予想通り、重なりあっている郵便物の中に、目当ての診察券はまぎれていた。
「先輩、ここにありましたよ」
恭一に声をかけたそのとき、モノクロが中心の紙の束の隙間から、海の色のような美しいブルーが背景の、一枚の写真がのぞいていることに気がついた。なぜか嫌な予感が、ぎくりと胸をかすめる。
今ヶ瀬がゆっくりと手にとったそれは、水族館らしきアクアリウムの前で、幸福そうに手をつないで微笑んでいる、恭一とたまきの写真だった。
「ごめん、ありがとー。そんなとこに入れてたのか」
恭一はそう言って、テーブルの前で静止している今ヶ瀬の手元をのぞきこんだ。しかし、彼が手にしているものに気づいた瞬間、こわばったように動きを止める。
二人の間に、部屋の温度が一気に下がったかのような沈黙が落ちた。
「……いい写真ですね。貴方もたまきちゃんもしあわせそうだ」
「……いいだろもう。返せ、捨てるから」
今ヶ瀬は冷笑しながら恭一を振り返った。
「どうして? せっかくの思い出なんだし、取っておいたらいいじゃないですか」
ひどくいやみな声音になっていることが分かるが、止まらない。
「……貴方はもう、こんな風に堂々と外で手をつなぐことなんてできないんだから」
口にした瞬間、自分の発した言葉にどうしようもなく傷つき、息がつまる。恭一はなにも言わず、暗く静かな目で今ヶ瀬を見つめていた。
すべて覚悟の上で恭一が隣にいてくれていることも、こんなことを言ってもどうしようもないことも、よく分かっていた。
こういうとき、慰めるように甘い言葉をかけたり、これまでの女性を否定してみせたりしない、彼の不器用で律儀な誠実さを愛していた。それでも今、どんなに安い言葉でもいいからかけてほしいと念じて待つ。
しかし恭一はなにも言わず、どこか突き放すような眼差しで、今ヶ瀬を見ているだけだった。昔の写真一枚で、感情的に当たっている自分の稚拙さを突きつけられたようで、頭の中が恥ずかしさと自己嫌悪で一杯になる。
今、昂ぶる感情のまま口を開いても、ろくな結果にならないことは嫌というほど身に染みていた。それでも、わずかでも終わりを仄めかせば、この男が一体どんな反応をするのか試したい、という昏い欲望がかすかに首をもたげる。
しかし、それは本気で別れたいと思っていないかぎり、決してしてはいけないことだった。
——あのときとはもう違う、と勝手に動きだそうとする口を必死でつぐむ。
恭一と別れることになったあの日——
『貴方には俺じゃだめだし、俺も貴方じゃだめです』
恭一が引きとめてくれるのではないかとどこか期待しながらも、その言葉は、一方で今ヶ瀬のまぎれもない本心だった。
恭一はなにかを言いかけたものの、彼が口にしたのは結局、終わりの言葉だった。
別れが決定的なものとなったあの瞬間。
今ヶ瀬が感じていたのは、自分が取り返しのつかないことを言ったのだという指先が震えるような後悔と——圧倒的な安堵だった。
やっとこの泥沼のような日々から解放されるのかと思うと、全身から力が抜けた。
恭一と肉体関係を持ち、恋人まがいの関係になってからの約半年間。それは夢のように幸福で、また甘美でありながら、生き地獄のような月日だった。まるで、柔らかな布でゆっくりと喉元を締めあげられるような——。
恭一から噎せかえるほどの悦びを与えられた次の瞬間には、いずれ必ず訪れるであろう、別れの恐怖に身が竦んだ。
恭一が彼なりに、今ヶ瀬のことを大切にしようと努力していることは分かっていた。しかし、優しくされればされるほど、それははたして恋愛感情なのかと、答えのでない問いを繰り返してしまう。
恭一は今ヶ瀬を受け入れてはくれたが、決してその答えをくれることはなかった。
男女の関係であれば、きっとそんなことをいちいち考える必要はなかったのだろう。しかし二人は男同士で、恭一は結局、どこまでも異性愛者だった。
自分だけが一方的に彼を求め、そうしてそれを赦されている、ただそれだけの関係——ふとしたとき——たとえば、恭一の心がたまきに動いているように感じられる瞬間、それを思い知らされるたびに、目の前が暗くなるほどの寂寥感が今ヶ瀬を打ちのめした。
恭一の気持ちを真剣に問いつめれば、彼がその残酷な優しさから、自分を突き放すことは目に見えていた。ときどき、まるで冗談のように問えたとしても、彼は戯れにも「愛している」とは言わない。
その誠実さがどれほど今ヶ瀬を追いつめたか、おそらく恭一には一生理解できないだろう。
恭一の甘美な巣の中でもがけばもがくほど、糸は幾重にも四肢に絡みつき、もはや自力で抜け出すこともできないまま、今ヶ瀬は少しずつ疲弊していった。
『終わりにしよう』
あの日、恭一からその言葉が降ってきた瞬間——自分のものとは思えないような慟哭を聞きながら、しかしこれでもう少なくとも、いつこの男を失うのかと恐れずにすむのだと、虚ろな心で考えていた。
たとえ翌日には、はかりしれない絶望と喪失感に襲われるのだとしても。
呼吸に意識を集中し、不用意な言葉を口にしないよう必死に気を鎮める。
気まずい沈黙が落ちたまま、二人はただその場に立ち尽くしていた。
今ヶ瀬は、テーブルの上に無造作に投げ出された写真にちらりと目をやった。恭一の隣に寄り添う、たまきの幸福そうな笑顔が目に入る。彼女はなに一つ悪くないと分かっていたが、できればもう、二度と見たくなかった顔だった。
自分が渇望するものを容易く手にできる者への嫉妬心と、怪我を負った彼女を前に、人としての道すら踏み外しかけた罪悪感とが、うねる波のように押し寄せ、あっという間に足元をすくっていく。
そしてフラッシュバックするように、普段は意識の奥底に沈めている、ある記憶が蘇る。だめだ思い出すな、と一瞬強く念じるものの、波は容赦なく今ヶ瀬を呑み込んだ。
恭一と訣別した日から数ヶ月後——その日はなにもかもが柔らかに照らされた気持ちのよい小春日和で、きっかけはほんの出来心だった。
ジムで汗を流した帰り道、あたたかな午後の陽射しの中を歩いていると、自分がかつて恭一に抱いていた狂想とも思える恋情も、どこか淡く遠く感じられた。
なんとなく、もう平気ではないかと思った。ふと試してみようと思いつき、一度思いついてしまうと、もう止まらなかった。
もし偶然にも恭一に会えたら——仲のよい後輩らしく明るく挨拶して——もしかしたら、食事くらいは普通にできるかもしれない。
本心はただ、一目だけでも恭一に会いたいだけだった。しかし、その思いは自分自身さえ気づかないほど、巧妙に心の奥底に隠されていた。
彼の住む街まで電車で向かう。目的地に近づくほど、嫌でも動悸が激しくなるのが分かった。それでも導かれるように電車を降り、マンションの方角へと足を向ける。
頭の片隅では引き返さなければと思うのに、足は勝手に、かつて通い慣れた道を歩いていく。
マンションの扉の前まで来たところで、今ヶ瀬はようやく立ち止まった。
エントランスに入る勇気までは出ないまま、どうしようかと迷っていると、奥の階段から男女二人が下りてくるのが見えた。それは、皮肉にも一目でいいから会いたいと思っていた恭一と——たまきの二人だった。
とっさに、隣家の駐車場の影に身を隠す。しかしそこは、彼らがこちらの方角に歩いてくれば、すぐに見つかってしまう場所だった。
移動しなければと思うのに、足は凍りついたように動かない。喉のすぐ下に心臓があるのではないかと思うほど、激しい動悸に呼吸が苦しくなる。
楽しそうに何かを話しながら、二人は今ヶ瀬に気づくこともなく、ゆっくりと反対の方角へと歩いていった。
——恭一とたまきの手は、しっかりとつながれていた。
あたたかな陽射しが、まるで二人を祝福するように降り注いでいる。
二人が立ち去った後、今ヶ瀬は路地に取り残されたまま、しばらく一人で立ち尽くしていた。
先ほどまで感じていた高揚感が、嘘のように冷えていく。なぜ会いにいこうなどと思ったのか——自分の迂闊さを心の底から呪ったが、もう手遅れだった。
恭一がすでに別の相手と前に進んでいるという現実とともに、自分はまだ、恭一をみじんも忘れられてなどいないことを、これ以上ないほど最悪の形で思い知る。
暗い淵に飲みこまれるように、感情が彩度を失っていく。哀しみすらどこか遠く感じられる頭の中で、唯一はっきりと理解したことは、おそらく今この世界で、自分以上に愚かで惨めな人間はいないだろうということだった。
——恭一の名前が思い出せないことに気づいたのは、この日から数週間経った後のことだった。
月日が経ち、彼が隣にいてくれる今でも、あの日、自尊心が徹底的に打ち砕かれた瞬間の心の痛みは、誰にも打ち明けられないまま、今ヶ瀬だけの消えない傷跡となって残った。
「先輩。俺、今から煙草買いにコンビニに行ってきます」
写真をめぐってぎくしゃくとしたまま、迎えたその日の夜。今ヶ瀬は、ベッドに寝そべりながらテレビを観ている恭一に、そう声をかけた。
「ふーん。俺も行こうかな」
「なにか欲しいものがあるなら買ってきますけど……」
風にあたりたいから一緒に行くという恭一と、外に出た。電灯がぽつりぽつりと続く人気のない住宅街の道を、二人で静かに歩いていく。
今ヶ瀬は、少し前を歩く恭一の、しっかりとした骨格の存在を感じさせる背中を眺めた。部屋着がわりのTシャツを着た彼は、スーツ姿のときと違い、ほんの少しだけ幼く見える。
今ヶ瀬にとって、もっとも馴染みのあるその姿——
学生時代の記憶の中にいる恭一は、そのほとんどが後ろ姿だ。後ろからなら、どれだけ見つめても気づかれることはなかったから。
あの頃、胸の内を悟られないよう必死に振る舞いながら、ふとした折に彼の肩や指先に触れただけで、心が震えた。
その数年後、交わってはじめて知った彼の温度——指や唇を這わせ合い、強く引き寄せたり、反対に押し倒されたりするときの——体温の高い恭一の肌の感触。
肌を重ねたことで、もはや引き返しようもないほど、情は深く致命的なものになってしまった。死ぬほど好きだと、いっそ絶望的な気持ちで思う。
優しく誠実かと思えば、ふらふらと流され、求められるまま関係を持つ。恭一の優しさには隔てがなく、それは反面、相手など誰でもいいことと同じだった。
こんな男に関われば、内臓が灼けるほど苦しむことは明らかなのに、どうしても手を伸ばさずにはいられない。自覚のない分、恭一は本当にたちの悪い男だった。
そんな男が、なぜすべてを捨ててまで自分といることを選んだのか、今ヶ瀬には今でもよく分からなかった。今日のように当たってしまった日は特に、この男は本物のバカじゃないのかと疑わしくなる。
——俺と一緒にいたって、幸せなはずがないのに。
ただ、どれだけ心の中で罵倒し否定してみせても、恭一への想いは、他のどんなものとも取り替えることができない。ときに暴力的なまでに荒れ狂うその感情を、途方にくれた思いで眺めることしかできなかった。
こんなに蒸し暑い夜だというのに、どこからかかすかに、秋めいた虫の声が聞こえる。
「ていうかさぁ、お前いつになったら煙草やめるわけ?」
ふと、恭一がそう言って、今ヶ瀬の方を振り返った。
「貴方のそばで吸ってないし、関係ないでしょ。副流煙でしたっけ? それに、だいぶ本数も減らしてるし」
恭一の言葉に自分を責める意図はないと分かっていたものの、反射的につっけんどんな口調でそう返す。
我ながら可愛くない返答だった。せっかく普通に話しかけてくれたんだから、もっと違う言い方もあったのに。恭一に言葉を返したその瞬間、たちまちそう後悔する。
舌打ちをしたくなるような気持ちで歩いていると、今ヶ瀬、と恭一にもう一度声をかけられた。恭一は、前方にある月極駐車場の方を見ながら、「ボスがいるよ」と柔らかな低い声で言う。
「……ほんとだ」
恭一の視線の先、ぽつんと立った電灯の下で、まるでスポットライトを浴びるように、茶トラ柄の猫が一匹、座っているのが目に入った。野良にしては妙に太っているその猫は、この近辺を縄張りにしているのか、二人の前にときどき姿を見せた。
その貫禄のある佇まいとふてぶてしい顔立ちから、いつしか二人の間で「ボス」という愛称で呼ぶようになったその猫は、近所で見かける他の数匹の猫たちの中でも特に、今ヶ瀬の気に入りの猫だった。
今ヶ瀬は猫を驚かさないようにゆっくりと近づくと、道の端にしゃがみこんだ。そのまま静かに、猫の姿を見つめる。
ボスは、二人の存在に気づいているのかいないのか、こちらをちらりとも見ようとしない。そして、人間同士のいざこざなどバカらしい、と言わんばかりの雰囲気で、くわとあくびをして見せた。
——お前はかっこいいね。
誰にも依存せず、一匹で悠々と生きている。
——俺もそんな風に生きられたらいいのに。
じっと見つめている今ヶ瀬の視線をあしらうように、ボスは尻尾を一振りすると、ぷいと顔を背けて歩き去ってしまった。
そのとき、背後から小さく笑い声が聞こえた。
振り向くと、恭一が声を抑えながら、しかし可笑しそうにくつくつと笑っている。
今ヶ瀬は突然笑いだした恭一に驚き、彼を呆然と見上げた。恭一は笑いを含んだ目で今ヶ瀬を見つめると、「お前は、可愛いね」と穏やかな声で言った。
恭一は時折、こんな風に唐突なタイミングでそう言っては、今ヶ瀬を驚かせることがあった。思いがけないその言葉に、昼間からずっと固くこわばっていた心が緩んで、つい弱音がこぼれる。
「……本当はうんざりしてるでしょう? 俺といて」
恭一の表情を確認するのが怖くて、俯いたまま顔をあげられない。恭一は黙ったまま、今ヶ瀬の頭にそっと手を載せた。そして慈しむように、ゆっくりと髪を撫でる。
それは恋人として付き合うようになった頃から、恭一が今ヶ瀬にたびたびくりかえす動作の一つだった。馴染みのある彼の手の温度に、少しずつ心が落ち着いていく。
そして、恭一は今ヶ瀬の手を引いて立たせると、真剣な表情で彼の顔をのぞきこんだ。今ヶ瀬と目を合わせ、うんざりなんてしてないよ、と静かな声で言う。
どこか納得しきれないまま、真意を見極めるように恭一の目を見返す。すると彼も真顔のまま、今ヶ瀬から目を逸らそうとしなかった。
しばらく睨みあうように、夜道に二人で立ち尽くす。
すると恭一が突然、今ヶ瀬の顔に手を伸ばした。不審に思った瞬間、指で鼻をつままれる。「なにするんですか」と手を払おうとすると、そのまま腕を引かれ、すばやくキスをされた。
その唐突な恭一の動作に、おもわず意表をつかれる。まだ彼に本心を問いつめたかったが、子ども騙しのようなそのやり口に、もうポーカーフェイスを保てない。
今ヶ瀬がたまらずに笑いだすと、恭一もそれにつられるように、目元をほころばせて笑った。
——こうやっていつもほだされる。この人は本当に、天性の人たらしだ。
「急に変なこと言ってすみません。行きましょう」
そう言ってふたたび歩きだそうとした今ヶ瀬の腕を、ふいに恭一が掴んだ。そしてするりと、指をからめて手を握る。
今ヶ瀬は驚愕し、とっさに振りほどこうと強く腕を振った。
「やめてください‼︎ これじゃ、もろゲイカップルじゃないですか……!」
力をこめられているようには感じないのに、恭一の手はしっかりと今ヶ瀬の手を掴んでいて離さない。反射的に周囲を見渡す。自分はともかく、恭一が好奇の目で見られることが怖かった。
「人もいないし大丈夫だよ。……それにゲイはおいといても、カップルなのは本当なんだから、別にいいだろ」
なにか言い返そうと口を開きかけるものの、唇がわななくだけで、頭の芯が痺れたように言葉が出てこない。
恭一以外の男と付き合っていたときも、外で手をつなぐことなどなかったし、そうしたいと思ったこともなかった。戸惑う一方で、自分の意思に反して、瞬く間に顔が熱くなっていくのが分かる。夜でよかった、と頭の片隅で思う。
しばらく躊躇ったあと、恭一の手の甲にそっと指を添わせると、応えるように恭一の手の力も強くなった。
彼の優しさが手のひらから直接流れ込んでくるような安心感と、確かに今、この男に愛されているという歓喜で、つないだ手がどんどん熱を孕んでいく。
全神経がつないだ手に集中し、慣れない状態に足がうまく動かせない。そのことに、狼狽と羞恥でますます頭に血がのぼる。
しかし振りほどくことなど、もうできなかった。なんとか平静をよそおって歩きつつ、そっと横目で恭一を窺うと、彼は人目に怯える雰囲気もなく、穏やかな表情で歩いていた。
「……先輩って本当に物好きな人ですよね」
「そうかもね」
「ちょっとは否定してくださいよ」
今ヶ瀬が憎まれ口を返すと、恭一は、なんなのお前、と言って苦笑した。
二人の間の空気が、ゆるやかにほどけていく。
今ヶ瀬の心が揺れてしまった日、恭一は愛の言葉を囁いてくれることも、言葉を尽くして慰めてくれることもなかった。それでも、こうしてさりげなく仲直りの機会を作ってくれるのは、いつも恭一だった。
そもそもこんな蒸し暑い夜に、風にあたりたいなどという恭一の言葉が本気であるはずがないことに、今になってようやく気づく。
「まだまだあっついなー。アイス買って帰ろ」
「はいはい」
——あと何度、こんな夜を越えたらいいんだろう。
目が眩むような幸福と、気が遠くなるほどの孤独が、同時に今ヶ瀬の胸に迫った。
恭一を世界の誰よりも、心から愛していた。けれど、彼と理解しあえる日は、おそらく一生訪れないだろう。
今ヶ瀬の傷も劣等感も、恭一と分かちあうことはできないし、彼もまた、彼だけの葛藤を抱えながら生きているはずだった。
永遠に埋められない溝を挟んで、手を伸ばし続けることに意味があるのかは分からなかった。もしかすると、今この瞬間も、恭一の人生を食い潰しているだけなのかもしれない。
それでも、どんなに自分勝手な欲望と罵られても、恭一から離れることなどできなかった。許されるのなら、死ぬまで一緒にいたい。
——このままずっと夜が終わらなければいいのに。
今ヶ瀬はそう強く願いながら、恭一と二人、誰もいない夜道をゆっくりと歩き続けた。
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