恭一が今ヶ瀬からゆっくりとペニスを抜くと、二人はしばらく放心したように、ベッドにならんで横たわった。
今ヶ瀬は、セックスの後の甘く気怠い身体をシーツに凭せ、深く満ち足りたため息をついた。汗ばんだ肌に、さらりとした布の感触が心地よい。
すると、隣で同じように息を整えていた恭一が、むくりと身を起こした。ベッドから立ち上がり、慣れた様子でゴムの処理を済ませると、キッチンの方へ裸足で歩いていく。
今ヶ瀬はその足音を聞きながら、ぼんやりと窓の外の音に耳を澄ませた。どこか遠くの方で、かすかにサイレンの音が鳴っている。
それは遠くなったり近くなったりしながら、この静かな夜のどこかで、あてもなく何かを求めるように鳴り続けていた。
瞼を閉じたまま、聞くともなくその遠い音の響きに耳を傾ける。すると突然、額にひやりと冷たいものがあてられた。
目を上げると、冷えたペットボトルを持った恭一が、いつのまにかそばに立っている。
「——水。飲むか?」
恭一はベッドに腰かけながら、今ヶ瀬に向かってそう問いかけた。
二度のセックスでさんざん喘いだせいで、喉からうまく声がでない。今ヶ瀬が小さく頷くと、恭一はぐったりとした今ヶ瀬の上半身を抱きかかえ、身体を起こすのを手伝ってくれた。
今ヶ瀬が水を飲んだ後、恭一も同じボトルから喉を鳴らして水を飲む。それからまた、二人でベッドにもぐりこんだ。
サイレンの音は、いつとはなしにどこかへ消えてしまったのか、気がつくとまったく聞こえなくなっていた。
そのかわりに馴染みのある心地よい沈黙が、事後の緩慢な空気とともにベッドの周囲に漂っている。
ふいに、片肘に頭を支えた姿勢で寝そべっている恭一が、今ヶ瀬の方を向いて「お前さぁ」と口を開いた。
「してるとき、なんで泣くの」
「……べつに。ただの生理現象」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、本心を言葉にしてしまうと、嘘みたいに聞こえそうで嫌だった。
ふと思いついて上半身を起こし、ベッドサイドに置いてあるはずの煙草の箱を目で探す。
そういえばジャケットのポケットの中だっけ、と思い出したが、ベッドを出て取りにいく気力はなかった。
諦めて枕に顔をふせ、軽くため息をつく。すると、恭一が今ヶ瀬の腰に腕をまわし、その身体を背後からするりと抱き寄せた。
抱きしめられる瞬間、うなじに押しあてられる唇の熱さに、今ヶ瀬は内心、何度でも驚いてしまう。
そして恭一は耳元に唇を寄せると、二人だけの秘密をそっと共有するように、低く甘い声で囁いた。
「……言っていい?」
「なに」
「ああやってお前が泣くの、めちゃくちゃ興奮する」
その言葉の突拍子もないばかばかしさに、今ヶ瀬は「バカ」と笑いまじりの声で答えた。
すると恭一も、今ヶ瀬の反応を予測していたのか、髪の上に唇をつけながら、くつくつと可笑しそうに笑う。
今ヶ瀬はごそごそと寝返りをうつと、恭一の腰に腕をまわして抱きついた。恭一も、今ヶ瀬を腕の中に閉じこめるように、強く抱き返す。
そのまましばらく——おそらくそれぞれ別々のことを考えながら——無言で抱き合う。
ふいに、恭一の指が今ヶ瀬の額に触れた。汗で張りついた前髪をそっと指先で梳くと、そのまま柔らかな手つきで髪を撫でる。
いつまでも優しく繰り返されるその掌の動きに、今ヶ瀬はうっとりと瞼を閉じた。
「……新しいベッド、週末にでも見に行くか」
今ヶ瀬の頭を撫でながら、恭一が静かな声で言う。
「そうですね……」
恭一のあたたかな体温と安心感のある匂いに、うとうとと心地よい眠気がやってくる。今ヶ瀬はそのまま、幸福な気持ちで微睡んだ。
「——さっきも言ったけど」
すると突然、恭一が口を開いた。眠りに落ちかけていた今ヶ瀬の意識が、ふっと現実に戻る。
「もっと広い部屋に引っ越してもいいし……」
そこまで言うと、恭一はまた、ためらいがちに口を噤んだ。
今ヶ瀬は、わずかに眉をひそめて恭一を見上げた。さっきから一体、何が言いたいのだろう。
そして恭一は、決心したように小さく息を吸うと、「だから、そろそろ……本当に一緒に暮らさないか」と、一気に口にした。
驚いて恭一の顔を見ると、かすかに緊張にこわばった目と視線が合う。意外なほど真剣なその表情に、今ヶ瀬はおもわず言葉につまった。
この数年間、恭一と半同棲の生活を続けながら、一方で今ヶ瀬はいつまでも、空き家同然の自分の部屋を手放さなかった。
そうしたのは、逃げ場を残しておきたかったからだ。
いつか恭一に捨てられてしまったとき、こうなることははじめから分かっていたと、自分に言い聞かせるための——。
恭一は何も言わなかったが、ただそばに居続けることで、彼が自身の気持ちを証明しようとしていることが、今ヶ瀬にも分かった。
恭一の過去はすでに問題ではなかった。踏み切れなかったのは、ただ単純に、自分が臆病だったからだ。
さんざん恭一を試すような行動をとったものの、彼の気持ちが気まぐれでも流された結果でもないことは、本当はもう、よく分かっていた。
今ヶ瀬がじっと黙りこんでいるせいか、恭一の目に一瞬、沈黙に怯えるような、ひどく不安げな色がよぎる。
その目の色を見た瞬間、今ヶ瀬の頭に、今まで思いもよらなかった衝撃が走った。
——どうして相手の気持ちが分からないのも、別れが怖いと思っているのも、自分だけだと思っていたんだろう。
いつか恭一がそう言ったように、今ヶ瀬には、同性愛者ではない恭一の気持ちはまったく分からなかった。
恭一がいったい何を考え、自分のそばにいることを選んだのか——。
恭一との関係を続けるために、いつも勇気を振り絞っているのは、自分の方だと思っていた。
けれど、恭一だって怖いのだ。どうしてずっと、そんな当然のことに気づかずにいたのだろう。それでもこうして、恭一は勇気をだして手をのばしてくれた。
そういえば、あの日もそうだった、と思い出す。雪の降りしきる中、恭一は逃げだした自分を追いかけ、今と同じように、彼の方から力強く、臆病なこの手をとってくれた。
——もう、逃げ場なんてなくてもいいのかもしれない。
「俺、今の街が気に入ってて……」
慎重に言葉を選びながら、今ヶ瀬が口を開いた。
「だから、二人で新しく部屋を借りるとしても……できればこの辺りがいいです」
黙って聞いていた恭一は、しばらく考えた後、「じゃあ、お前の荷物もあるだろうし、この近辺でもう少し広い部屋を探すか。……それでいい?」と聞いた。
今ヶ瀬が頷くと、そうか、と安堵を滲ませた声で、恭一が答える。
今ヶ瀬は恭一の首筋に頬ずりをするように顔を寄せ、そのあたたかな肌に唇をつけた。そして恭一だけが持つ、いとおしい匂いを深く吸いこんだ後、ゆっくりと唇を離す。
「今ヶ瀬」
そのとき、恭一がふいに口を開いた。
「——愛してるよ」
はじめてはっきりと聞くその言葉に、今ヶ瀬は驚いて恭一の顔を見上げた。しかし恭一は表情を見られたくないのか、ぐっと頭を胸に抱き寄せられる。
「……ちょっと、離してくださいよ」
「だめ」
ふざけた口調で笑いあいながら、言葉にならない幸福感に、視界がゆっくりと、あたたかくぼやけていく。
「……俺もです」
今ヶ瀬は少し黙った後、なんとか笑みを含んだ声でそう答えた。すると、恭一もひっそりと微笑んだ気配がして、そしてまた、柔らかく唇が下りてきた。
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