——ノンケの男というものは、どうしてこうも、自分のスタイルを維持しようという意識が希薄なんだろう。
すべてのものが心地よく整った夜のキッチンで、今ヶ瀬はつくづくそう訝しく思う。
先月から、恭一の体重が2キロも増えているのだ。その数値に衝撃を受けている今ヶ瀬に対し、当の本人は「最近、外食が続いたからなあ」とのんびりと言うばかりで、減量を心がけるそぶりもない。
考えごとをしながらも、包丁を持つ今ヶ瀬の手は一定のペースで食材を切り分けていく。時間に追われず、集中して料理のできるこの時間が、今ヶ瀬は好きだった。
——それにしても。
業腹なのは、恭一の態度である。晴れて40歳を迎えた現在、ただでさえ太りやすい年齢だというのに、あの危機意識の低さはなんなんだ。
ビールを好んで飲むのは仕方がない——なにしろビールを売る仕事なのだから——と思えたが、目を離すとカロリー過多のスナック菓子をつまんでいたりして、まったく油断ならないのだ。
今ヶ瀬にしてみれば、自分も彼も若者とはいえない今、食事の節制や適度な運動などして当然の行為だったが、恭一には今一つその気概が欠けている、と思う。
一見地味ではあるものの、せっかく悪くない容姿をしているのだから、少しは維持する努力をしてほしい。そう苦々しく思う一方で、しかし心の底では、自分にはない彼のその無頓着ぶりに、一抹の憧れを感じてもいるのだった。
そんなとりとめのないことを考えながら作ったおかずは、はじめて作ったにしては、なかなかの出来栄えだった。
——これは、明日の弁当に入れよう。
満足した今ヶ瀬は、保存容器とは別の皿にとったおかずにふわりとラップをかけた。調理台をすみずみまで拭きあげ、流しに残した洗いものにとりかかる。
今ヶ瀬が恭一の弁当を作りはじめたのは、ここ数か月ほどのことだった。
恭一がもし、わずかでも困った顔をしたら——すぐに「冗談です、自分用ですよ」とからかったふりをして引っこめよう、と心の準備をして渡した弁当を、彼は思いのほか、喜んでくれた。
いい歳の男がいきなり持参する手作り弁当など、それを作ってくれる深い仲の相手ができたと公言するようなものだと思うが、恭一はそれを普通に社内で食べているようだ。
バツイチという彼の経歴か、あるいは時代柄なのか、周囲もそれほど深く詮索してこないらしい。ともあれ、自分の作ったものを堂々と外で食べてもらえることは、想像以上に嬉しいことだった。
鼻唄をうたいながら、泡のついた食器をすすぎ、一つ一つ水切りかごに積みあげる。その水音で気づかなかったが、ふと振り返ると、当の恭一がそばに立っていた。
冷蔵庫の扉を開けたまま、なにを取りだすでもなく、ぼうっと中を眺めている。用がないならさっさと閉めてほしい、という小言をこらえて、「なにか飲みます?」と声をかけた。
「いや、大丈夫。……お前、まだやるの?」
「あとちょっと。先に休んでてください」
しかし恭一は、「お前も仕事で疲れてるんだし、そんなに頑張らなくていいよ」と言いながら、手伝うつもりか所在なげにキッチンをうろうろとしている。気遣い自体はありがたいものの、はっきりいって邪魔だった。
適当な返事であしらっていると、寝室に戻ったのか、いつのまにか姿が消えている。今ヶ瀬は気にとめずシンクを磨きあげると、ようやくひと息つき、キッチンの明かりを落とした。
シャワーを浴びて寝室をのぞくと、恭一はいつもどおり、ベッドに寝そべりながらテレビを眺めていた。
一言声をかけて、恭一の懐側のスペースにもぞもぞともぐりこむ。彼に身体を寄せた瞬間、自分と同じボディソープと、かすかに混じるあたたかな彼の匂いに包まれた。
恭一に触れると、心より先に、肌が反射するように安堵する。全身の力がするするとほどけるのと同時に、ほうと満足げなため息が漏れた。
——この人は、なぜいつもこんなに体温が高いんだろう。
そうぼんやりと考えていると、背後から恭一の手がのび、腰をぐいと抱き寄せられた。そのまま、乾かしたての髪の感触を楽しむように、頭上に何度も唇を押しあてられる。
普段の恭一らしくない甘いしぐさに、驚きで息がつまった。一拍置いて、目眩がするほどの悦びに襲われる。
そういえば、こんな夜の浅い時間にベッドに入るのはひさしぶりだ。キッチンを妙にうろついていたのは、遠慮しているからではなく、さびしかったのか——?
今ヶ瀬の関心がなにかに長く集中すると、さりげなく自分の方に向かせようとする傾向が、恭一にはあった。本人も無自覚らしい、そんな子どもじみた甘えを向けられるたびに、内心、簡単に浮かれてしまう。
テレビ画面を流れる映画に恭一とくだらない茶々をいれながらも、普段よりはずんだ口調になっているのが、自分でも分かった。
そんな浮かれた気持ちが伝わったのか、今ヶ瀬の耳のそばに顔を寄せた恭一が、
「今日はご機嫌なの?」
と、まるで幼児をあやすような、微笑みまじりの声で囁いた。二人きりのときだけに出す、彼の恋人らしい声音に、身体の芯がじわりとうずく。
「普通です」
今ヶ瀬はふんと笑って、わざとつっけんどんな言い方で返した。
そんな答え方でも、今ヶ瀬の嬉しがっている気配が伝わったのだろう。恭一はくぐもった笑い声をたてて、耳に唇をつけてくれた。
幸福な気持ちとともに、彼はなんて能天気な男だろう、としみじみ思う。
今回に限らず、今ヶ瀬の日常における喜怒哀楽のほとんどは、この目の前の男からもたらされるのだったが、当の本人に今一つ自覚がないので始末が悪い。
このあいだもそうだ——と、今ヶ瀬は数日前にしたばかりの、恭一との喧嘩を思い返す。
それは喧嘩というには、あまりに一方的な今ヶ瀬の責めに終始した恒例の言い合いだったが、恭一は「うん」とか「たしかに」とかもっともらしい相槌をうちながら、暖簾に腕押し、というか、柳に風、というか、まあそんな風情なのだ。
ささいなこと——と恭一は思っているにちがいない、日々のさまざまな諍い——で怒り狂っている自分を、むしろめずらしい生き物でも眺めるかのような目で見ている気がする。
この男は、どうして俺が怒っているかなんてちっとも分かっちゃいない、と今ヶ瀬はさらに憤慨しつつも、気が抜けるというか、気勢をそがれるのも事実だった。
実際のところ、嫉妬深く粘着質な性格の自分が、まがりなりにも彼とここまで続いているのは、ひとえにこの恭一の寛容さ——それは彼特有の流されやすさでもあったが——によると分かっていた。
そんな恭一との喧嘩の愚痴も、今や気のおけない友人となった夏生にこぼすたび、「結局、割れ鍋に綴じ蓋ってところね」と、あきれた様子で言わせることになるのだった。
映画はなんだかつまらない。鑑賞もそこそこに恭一と会話に興じていたが、先ほどまで楽しげに話に乗っていた恭一が、しかし突然、ふっと黙りこんだ。
——俺、なんかまずいこといったかな。
学生時代、一方的に好きだった頃には気づかなかったが、恭一は存外、話好きだった。
あの頃、恭一はよく夏生や同級生たちとのにぎやかな輪の中にいたが、彼自身が活発に発言しているというより、誰かの話をいつも感じよく聞いている、という印象が強かった。
実際に恭一と会話していると、落ち着いた相槌や時折はさむコメントに安心感があり、かつても今も、そこにはつねに気持ちのよいはりあいがあった。
ともに暮らすようになった今、本気で言い争うときでさえ、彼が「無視」という手段をとることはなく、いつもきちんと会話のボールを投げかえしてくれる。
そんな恭一が、先ほどの楽しげな様子が嘘のように、だんまりと口を閉ざしている。今ヶ瀬は訝しみながら、直前までの彼とのやりとりを反芻した。
——もしかして、俺の初恋の話を聞くのが嫌なのか?
ふとそう思いあたり、おもわず吹きだしそうになる。今ヶ瀬は身体が笑いで震えないよう、とっさに腹筋に力を入れた。
これもまた、目で追うばかりの片想いの頃には分からないことだったが、恭一は意外にもやきもちやきで、独占欲の強い男だった。
今ヶ瀬にとっては恭一以外の男などまったく眼中になく、それは彼も知っているはずのことだったが、それでも妬かれるたわいもないやきもちは、悪くなかった。
もはやすっかり筋を見失った、目の前の映画を眺めているふりをしながら、今ヶ瀬はぼんやりと少年時代の淡い恋の記憶をたどった。
今ヶ瀬が自身の恋愛感情をはじめてはっきりと自覚した相手は、中学生の頃の若い男性教師だった。
しかし、彼がいったいどんな顔をしていたのか、今となってはほとんど思い出せない。当時、その教師がよく着ていたセーターの色だけが、妙に記憶に残っている。
歳上の同性へのひそかな初恋は、想いを告げることなく胸の内だけで終わったものの、端正で甘い顔立ちをしているおかげで、男はいくらでも寄ってきた。
恋なんて、どんなに綺麗な御託でコーティングしても所詮性欲だ。
どうせ向こうも外見しか見ていないのだ。適当に遊んで、飽きたらあっさり振って、それでおしまいだった。たまに入れこんでくる男もいたが、一人よがりな幻想の押しつけとしか思えず、かえってうんざりした。
そんな中、人生でたった一度だけ、狂おしいほど心底惚れた男が恭一だった。
——なぜあの人だけは、あんなにも特別だったんだろう。
大学卒業から数年後、運命のいたずらで再会したのをきっかけに確かめる思いでふたたび近づき、たちまち足元をすくわれた。
彼はいずれ、女と幸せになる人だ。多少振り向いてもらえたからといって、本気になってはいけない——そう自戒しながらも、恭一と肉体関係を持ち、ついに彼を抱くだけでなく抱かれるようになってからは、もう離れることなどできなくなっていた。
愛する男と肌を合わせる激しい悦びの日々のなかで、しかし今ヶ瀬の心をもっとも強く縛りつけたのは、恭一との身体の繋がりではなかった。
彼の「おかえり」といってくれる穏やかな声、笑ったり驚いたり考えこんでいたりする一つ一つの表情、寄り添ってくれる肩の厚み、ただ疲れきってベッドにもぐりこむ日の、彼の体温と匂いの心地よさ——
恭一との暮らしを重ねるほどに、性欲だけでは到底わりきれない感情が、今ヶ瀬の胸を静かに、引き返しようもないほど深く占めていった。
二人羽織のような体勢で恭一から抱きしめられているのをいいことに、今ヶ瀬はひっそりと表情を緩ませた。
——貴方は本当にわかりやすい。
当時、妻帯者だった恭一の浮気調査をきっかけに再会したばかりの頃、そう言って彼を挑発したことを思い出す。
あのとき、怒りに震えた恭一に水をかけられそうになったのだったが、同じことを、こんなに幸福な気持ちで考える日が来るなんて思っていなかった。
すると、ときどき今ヶ瀬の髪に鼻先を埋めたり、軽くキスしたりするほかはじっと黙っていた恭一が、ふいに体重をかけてのしかかるように、今ヶ瀬の身体に脚を絡めてきた。
今ヶ瀬が「重い」と笑いながら言って振り落とすと、今度は後ろから抱きすくめられ、思いきり腹をくすぐられる。
恭一の手から逃れながら、我ながら驚くほど、屈託のない笑い声がはじけた。その様子におもわずつられたのか、恭一も愉快そうに笑いはじめ、もっと楽しい気分になる。
自分が笑うと、恭一がどこか嬉しげな表情をすることに、今ヶ瀬は気がついていた。
愛しているという言葉はなくても、二人きりの時間でこちらを見つめる眼差しや深くあたたかな声、肌に触れるしぐさが、雄弁に愛情を伝えてくれた。
謀略じみたきっかけで恭一と関係をもって以来、自分が彼の手を引いていると、ずっと思っていた。
もう離れられないと思っているのに、いつか恭一にその人生を後悔させてしまうことが恐ろしくて、どうしても「貴方のすべてが欲しい」と言えなかった。
叶うはずのない望みを抱きつづけることに疲弊し、かといって恭一への想いを断ち切ることもできず、まるでジェットコースターのように情緒が混乱をきわめていたあの頃——
恭一は本当なら来なくてもいい場所まで来て、逃げ腰だった自分の手を力強く引き、堂々めぐりの場所から連れだしてくれた。
神も仏もまったく信じていなかったが、この男とこれからも生きていけるなら、ともに歳を重ねていけるなら、得体のしれない彼らになにを差し出してもよかった。
ベッドの中は、二人の体温ですっかり心地よくあたたまっている。
恭一の肌からは催眠物質でも出ているのかもしれない、と今ヶ瀬はうつらうつらと考えながら、みるみるうちにやってきた穏やかな眠気に身を任せた。
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