Title:初恋(K)


木漏れ日が落ちる洋館の窓辺で、一組の男女が向かいあって座っている。

女は自分を見つめる青年の視線に気がつくと、蠱惑的な表情で微笑んだ。青年は熱のこもった眼差しで、いっそう強く彼女を見つめかえす——

テレビ画面を流れるその古い映画の光景を、恭一はベッドの上に寝そべりながら、見るともなく眺めていた。
 
仕事終わりの平日の夜。面倒なことはなにも考えなくてよい——会議も契約も売上も今は遠い——やすらかな就寝前のひとときを、彼は一人、ぼんやりと味わっていた。

わずかに身じろぎすると、ひやりとしたシーツが肌に冷たい。恭一は、裸足のつま先を擦りあわせるように少し動かした。

流れる映像を目で追いながら、今ヶ瀬はまだやってるのかな、と思う。

最近の今ヶ瀬は、作りおきのおかずというものに凝っているらしく、夕食後の夜も熱心にキッチンで作業する日々が続いていた。

「俺が急に仕事入る日もあるし、こうして作っておけば安心でしょ」と言ってさまざまなおかずを作っては、冬眠前のリスのようにせっせと冷蔵庫に貯めこんでいる。

一度熱中するとのめりこむたちの彼は、最近は恭一の弁当づくりにまでその手を広げ、それはもうまめまめしく調理に励んでいるのだった。

折をみてベッドに誘おうと、恭一が手伝うそぶりでキッチンをうろついても、あきらかに邪魔そうにあしらわれ、すごすごと寝室に戻る——そんな日々が続いている。

しかし彼のその労力も、恭一の健康と体重管理(今ヶ瀬は恭一のそれらの変化にじつに鋭い)のためだと思うと、料理なんていいからこっちに来いよ、とはとても口にだせないのだった。


「先輩。俺もそれ観るから、ベッドにいれて」

そんなことを考えていた矢先、今ヶ瀬が寝室に顔をのぞかせた。いつのまにか、普段着から就寝用のTシャツとスウェットに着替えている。

「うん。おいで」

今日はいつもより早いな、と思いながら、懐の前に彼のスペースを作る。そこにいそいそともぐりこんできた今ヶ瀬の、かたちのよい頭を優しく撫でた。

「今日はなに作ってたの?」

今ヶ瀬の腰に手をまわして抱き寄せ、その後頭部に唇をつけながら尋ねる。

「……ええと、手羽元のオーブン焼きと、小松菜のお浸し。明日は俺いないから、それ食べといてくださいよ」
「うん、そうする。いつもありがとな」
「べつに。俺も食べるし」

今ヶ瀬が発言するたびに、彼の髪がふわふわと顔にあたり、少しくすぐったい。恭一はその髪に鼻を埋めると、慣れ親しんだその匂い——シャンプーと煙草、そして彼自身の香りが混じりあった匂い——を静かに胸に吸いこんだ。

彼の身体を抱きながらそうするうちに、じわりと欲情してきたが我慢する。一方で、テレビ画面をじっと見つめていた今ヶ瀬が、恭一の顔を振り仰ぐようにして問いかけた。

「なんだかすごく昔の映画みたいですね。なんていうタイトル?」
「ん? 俺も適当に観てただけだから、わかんないな」

リモコンを操作して確認すると、それは『初恋』という邦題の古い洋画だった。しばらく二人で、流れる映像を黙って眺める。

「……男って、こういう奔放そうな女がちょっと憂いを見せただけで、コロッと落ちるんですよねぇ。絶対性悪ですよ、この女」
「お前ねぇ、いたいけな青年の夢を壊すなよ」

身体を寄せあったまま、おたがいにくだらないことを喋りあう。

人付き合いにおいて、どちらかというと聞き役にまわることの多い恭一だったが、今ヶ瀬の前では饒舌になる自分を、彼は自覚していた。

数年前、ふとしたきっかけで再会した今ヶ瀬は、学生時代の後輩とは思えないほど辛辣に、手心というものをいっさい加えない様子でずばずばと、恭一の内面を暴きたててきた。

しかし彼は、恭一のあらゆる欠点を知り尽くしたうえで、なぜかそれでも愛してくれた。その事実は、優しくよい人間として好意をもたれるよりもずっと、恭一に深い自己肯定とやすらぎを与えてくれた。

彼と会話をするのは、それがどんな内容であれ、素の自分でいられる解放感があるのだった。

しばらく二人で茶々を入れあいながら映画を観ていたものの、今ヶ瀬は途中で内容に飽きてしまったのか、恭一に本格的に話しかけてきた。

「ねぇ、先輩の初恋の相手ってどんな人でした?」
「うーん……? そう言われても、とくに思い出せないな」

貴方のことだから、どうせ可愛くて優しくて積極的にアプローチしてくれた女の子でしょ、とからかうように言って、今ヶ瀬は笑う。

——あれ、今日は機嫌がいいのか。

今ヶ瀬の声の調子から、恭一はふとそう気づく。

彼と肉体関係を持ち、深い仲となってから知った、いくつかの事柄——その一つ目は、一見冷静に見える佇まいからは予想もつかないほど、彼がとても感情豊かで、激しい気性の持ち主だということだった。

学生時代の今ヶ瀬は、けっして無愛想ではないものの、その端正な顔に感情をのぞかせることのほとんどない、比較的もの静かな男だった。

今思えば、なにかと理由をつけてそばにいることが多かった気もするが、彼が怒りをあらわにしたり、反対に無邪気に笑ったりする姿を目にすることは少なかった。

あの頃の今ヶ瀬は、同性愛者であることも、恭一に恋愛感情を抱いていることも、けっして打ち明けようとはしなかった。彼なりにさまざまな思いがあったに違いないが、必死にそれを悟られないよう、感情を押し殺していたのだろう。

数年後に再会した今ヶ瀬は、かつて抑えこんでいた思いを発散させるかのように、なかば謀略じみたやり方で、恭一に大胆に迫ってきた。

ときに離れたり戻ったりしながら、恭一は次第に彼をかけがえのない存在として想うようになったものの、一方でなかなか、彼に愛していると伝えることができなかった。

今ヶ瀬がその言葉を、心から求めていたことを知っていたのに——。

そんな中、今ヶ瀬のヒステリックな言動はますますその激しさをつのらせていき、彼自身にももはやコントロールができないらしい情緒不安定なその姿は、ひどく痛々しかった。

さまざまな葛藤を経て、ともに生きるようになってからは、ときに台風のように荒れ狂う今ヶ瀬の心を理解し、寄り添おうと努力してみたこともあった。

しかし、どちらかというとおおらかな性格の恭一に対し、今ヶ瀬の感受性はあまりにも鋭敏かつ峻烈だった。

いったん感情に火がつくと、彼は怒鳴ったりわめいたりしながら、一人でどんどん興奮していく。恭一はその感情表現の激しさとスピードに圧倒されるまま、なんとか話についていくだけで精一杯だった。

くり返される嵐のような口論と、ほんのわずかな歩み寄りの日々——いったいどれほど、そんな月日を重ねてきただろう。

それでもいつの頃からか、恭一は気づいていた。

晴れの日があれば雨の日もあるように、彼にとっては、喜びも怒りもごく自然なことなのだ。自分はただ、目の前の彼をすべて受け入れればいい。

無理に変わる必要はないと思ったし、彼がそうしてさまざまな感情を見せるのは、唯一、自分に対してだけだ、という強い確信が恭一にはあった。そしてその事実は、恭一の今ヶ瀬に対するいとおしさを、さらにつのらせたのだった。

そう考えるようになってからは、なにかのきっかけで彼が癇癪を起こしていても、「これはこれで可愛いな」とひそかに思えるほど、落ち着いて受けとめられるようになっていた。

ともに生活していると、突然くどくどと怒りだしたかと思えば、いつのまにか機嫌よく部屋の掃除をしていたり、ぼんやりと煙草を吸っていたりする彼の自由気ままな様子は、見ていて飽きなかった。

思い起こせば、元妻の知佳子も情緒豊かな女性だったが、かつての恭一にとって、彼女の喜怒哀楽の変化は、ただ畏怖の対象だった。

彼女が喜べば、自分の言動が間違っていなかったことにほっと胸を撫で下ろし、怒ったり不機嫌になれば、なにが失敗だったのだろうと、そんなことばかりが気になった。

しかし現在。恭一にはよく理由が分からないものの、今ヶ瀬のどこかはずんだその様子に、つられてふわりとあかるい気持ちになる。


それにしても。

——初恋の相手、ねぇ。

こういう場合、同じ質問を返してみせるのがコミュニケーションの基本かつ礼儀だと分かってはいたが、恭一にそうするつもりはなかった。

今ヶ瀬とともに生きるようになってはじめて知った、二つ目のこと——それは意外にも、自分がひどく嫉妬深いたちだということだった。

この事実に、当の恭一自身がもっとも驚き、戸惑っていた。彼には、かつての恋愛遍歴の中で、そのような感情を誰かに抱いたという経験が、まったくといってよいほどなかったのだ。

正確にいえば、これまで比較的多くの女性と関係してきた恭一にとって、嫉妬を覚えてもおかしくない機会そのものは数多くあった。

相手の話を否定しない——とくに女性に対して顕著に発揮される——傾聴的な恭一の態度がそうさせるのか、これまで付き合ってきた女性たちは皆、過去の恋愛について、じつに詳細に語ってくれた。

しかし、それなりに好意を持っていたはずの彼女たちの恋愛話に対して、恭一が嫉妬という狂おしい感情を抱いたことは、不思議と一度もなかった。

むしろ、それらの話を聞きながら彼が考えていたこと——それは、「昔の男と同じことをして、嫌われないようにしなければ」という、きわめて現実的な教訓だった。

しかし、今ヶ瀬に対してだけは、たとえそれがどんなに遠い過去の話であっても、平常心で話を聞ける自信が、なぜかまるで持てないのだった。

そういえば昔、今ヶ瀬の初体験の話を聞いたとき——あれはたしか、夏生と今ヶ瀬に、今すぐここでどちらか選べと迫られた日——あのとき、一瞬で頭に血がのぼった。そんな話は聞きたくないと強い語気で、彼の言葉を強引にさえぎった。

今ヶ瀬の手をとる覚悟もなかったくせに、彼がはじめて肌を重ねたという相手の男に、燃えるような嫉妬を覚えた。

どこまで自分勝手な男だろう、と苦々しく振り返る。あの頃から、彼をまともに愛することもできないまま、独占欲だけは強かったのだ。

そう、独占欲——これはもう非常に厄介で、自分自身の感情にも関わらず、恭一にはもはやまったく手に負えない代物だった。

彼の目下の悩みは、今ヶ瀬が元彼の高杉と、現在は友人同士として連絡をとりあっているらしいことに対し、普通の態度がまるでとれないことだった。

本心では、いっさい関係を持ってほしくないと考えていたものの、男の嫉妬など見苦しいと思ったり、彼らの友情に口を挟むべきではないという理性も働くため、「彼ともう親しくするな」とは、とても言えなかった。

ただ、高杉の話になるとあきらかに口数が少なくなる恭一の態度に、今ヶ瀬もなにかを察知しているらしく、そういうときの彼がどこか嬉しそうな表情をしていることに、恭一も薄々気がついていた。

嫉妬していることがばれていると思うといたたまれないほど恥ずかしかったが、かといって笑顔で話を聞くこともできず、恭一はそんな自分を持て余しているのだった。

そして今回も——「初恋」という変えようもない過去に対し、無駄と知りつつ嫉妬してしまうことは目に見えていたため、恭一はその話題を、さりげなく黙殺することにしたのだった。

今ヶ瀬は、恭一が急に黙りこんだことなど気にもとめずに映画を眺めている様子だったが、ふと一瞬、笑いを堪えるかのように彼の身体が震えた気もする。

——やはり、今ヶ瀬にはばれているのかもしれない。


今ヶ瀬は、はたして自分といて幸せなのだろうか?

あの雪の日以来、つねに頭の片隅でくり返されている問いが、恭一の頭をよぎる。

恭一の考える幸せのかたち——愛されているというたしかな実感を持ち、安定した情緒で穏やかに暮らすこと——そういう意味では、今ヶ瀬が自分といない方がいいことは分かりきっていた。

おたがいがその幸福の条件を満たせる相手を見つけ、別々の人生を歩んでいく——曖昧な二人の関係に疲弊しきった今ヶ瀬と別れて以来、恭一は本気でそれでいいと考えていた。

おそらくその方が、人生の選択肢としては自然で適切だったのだろうと、今でも思う。

恭一が今ヶ瀬のことをどれほど大切に考えているつもりでも、異性愛者でしかない恭一には、自分のその感情を「愛情」だと断言することがどうしてもできなかった。

一方で今ヶ瀬も、執拗に迫ってくるにも関わらず、あくまで恭一は女のものだと境界線を引き続けては、けっしてその一線を越えて、恭一のすべてを求めようとはしなかった。


彼と半年ぶりに再会したあの日。

彼が恭一のことを「いずれ女と幸せになる人間」だという前提で関わろうとするかぎり、また付き合ったところで、同じ泥沼がくり返されることはあきらかだった。

そんなことを続けていて、いったい何になるだろう?

恭一にはもう、彼の苦しむ姿を見ながら愛情だけを享受することは不可能だったし、刹那的な欲望を満たすだけの中途半端な関係ならいらなかった。

恭一が求めていたのは、一方的な奉仕でもひとときの享楽的な交わりでもなく、おたがいに愛情を与えあい、同じ時間を積み重ねてゆける相手だった。そんなことが可能かどうかはともかく、今ヶ瀬を失って以降、欲しかったのはそれだけだった。

しかし彼は、あくまでも愛人云々と短絡的な欲望をぶつけてくるばかりで、そのあまりにも自分勝手な言い分に、怒りはとめどなく沸いて止めようもなかった。

それでも、あのまま拒み続けていれば、いずれは彼も諦めがついただろう。

そうすべきだと頭では分かっていたのに、最終的には恭一を大声で罵倒しながら部屋を出ていこうとした今ヶ瀬を引き止めたのは、結局、恭一自身だった。


彼を見送る玄関先で、ここであともう一押し突き放せば、おそらく本当に終わるだろう、と感じた。そうすれば、自分も彼もきっと幸せになれる——たしかにそう思うのに、言葉がでてこなかった。

恭一にはまだ彼から聞きたい言葉があり、その思いは今ヶ瀬にも伝わっていたのだろう。どうにかしてくださいと、彼は最後、苦しげに言った。

『案外つまんないことしか言わなかったな。愛人にしろだの、5秒ハグしろだの……』

気がつけば、彼を挑発するようにそう口にしていた。その言葉に逆上してわめき散らす今ヶ瀬を前に、ぎりぎりまで保っていた理性が静かに切れる。

突き動かされるように、出ていこうとする彼の手を掴んだ。抵抗して暴れる今ヶ瀬の頬を打ち、強引にキスをする。そして力の抜けた彼を、無理やり部屋に引き戻した。


『貴方じゃだめだ』

かつて今ヶ瀬はそう言い、恭一のもとから去っていった。その言葉が当時の恭一をどれほど打ちのめしたか、彼にはおそらく想像もできないのだろう。

あのとき感じた、底の見えない深い喪失感と哀しみは、彼を前に今、鋭い怒りへと変わっていた。そして、もっと縋りついてくればいいという欲望が、隠されていた嗜虐心をどこまでも煽って止まらない。

今ヶ瀬の身体を思うままに抱きながら、恭一は今ヶ瀬と別れてからの半年間、心の底ではずっと彼を求めていたことを、もう認めないわけにはいかなかった。


あの日の深夜。

肌を重ねたあとの親密さのただようベッドで彼と話していると、半年の歳月など、簡単に無効になってしまった気がした。

『俺、結構、健闘しましたよね……?』

いつもどおり軽口を叩きあった後、しかし今ヶ瀬は、どこか諦めた声でそう言った。そして、途方にくれたように枕に顔を埋めていた彼の姿を、今でも鮮明に覚えている。

そこにいたのは、見せかけの余裕も虚勢も投げ出したまま、恭一に向かって無防備に胸の内をさらけだしている、一人の生身の男だった。

彼のその姿を目にしたときの、心がどこか深くに落ちていくような不思議な感情をどう形容したらいいのか、今でもよく分からない。

黙ったまま、彼の髪をゆっくりと撫でた。

——いとおしい。もう、どうしようもない。

おたがいに言葉もなく、かたく抱きあう。今ヶ瀬はそのまま、ぽつりぽつりと話しだした。

仕事のこと、ひどく落ちこんでしまう日は、恭一がそばにいてくれる人生だったらよかったのにと、どうしても考えてしまうこと——。

そうして彼は、彼女と別れてほしいと、しぼりだすような声で言った。

彼と再会する前から、ひそかに抱いていた恐れ——もし今ヶ瀬にそう望まれれば、けっして断れないことを、はじめから確信していた。それでも、その言葉を引き出したくて、彼を試していたのも自分だった。

今ヶ瀬と会ってしまえば、こうなることは分かっていた。

彼と引きかえに失うものの大きさに怯え、なによりそれでも、実際に彼を前にすれば、手を伸ばすにちがいない自分に怯えた。しかしもう抗えないと、諦念とともに思う。

——この男が欲しい、どうしても離したくない。

あの夜を境に、恭一は自分がついに、目の前の男に完全に陥落したことを悟ったのだった。


今ヶ瀬は、ゼロでなければそれでいいと言いながら、恭一がたまきと別れることに、最後までしぶとく反対し続けた。

本当なら彼女と幸せになるはずだった恭一の人生を、自分のせいで変えてしまうことが怖かったのだろう。

しかし、たまきと結婚したうえで今ヶ瀬とも付き合うなどという未来に先があるとは思えなかったし、彼女をそんなかたちで裏切ることは、絶対にできなかった。

たとえ今ヶ瀬本人に望まれなくても、その思いの欠片すら理解されなくても、もうかまわなかった。

彼も自分も、身勝手なのはおたがいさまだ。自嘲するように思う。

100でもそれ以上でも、自分の心のすべてを彼に捧げよう。彼はじゅうぶん、それだけのものをすでに差し出してくれたのだから。

だから、大切なものを捨てた。

今ヶ瀬を失ってから、必死に前を向こうともがき積み上げてきたもの——ささやかであっても、満ち足りていたはずの幸せ。

たまきを深く傷つけることは確実だった。できることなら、彼女を手放したくないと、心から思う。これから別れを告げなければならないことが、身を切られるほど辛かった。

——それでも、どうしても今ヶ瀬を離せない。

自身の相反する感情に押し潰されそうになりながら、恭一が人生ではじめて思い知っていたのは、愛情は公平なものではないという当たり前の事実だった。

今ヶ瀬と再会したばかりの頃。

相手が愛してくれれば、貴方も愛せるようになるのかと問いかけてきた今ヶ瀬に、それが情というものだろう、と言い返したことを思い出す。

しかしあれは間違いだった。愛されたからといって同じように愛することなどできないし、必ずしも幸せになれる相手を選べるわけでもなかった。

人を心から愛してはじめて、それがどこまでも不公平で、理不尽なものだと思い知る。

今ヶ瀬と生きていくと決めたものの、彼を幸せにできる自信などまったくなかった。

たまきだけでなく、いずれは今ヶ瀬まで不幸にするかもしれないのに、それでも、どうしても彼を離したくない——。もはや、今ヶ瀬の幸せや未来すら犠牲にしてもいいと思うほどの、利己的な感情に支配される。

好きになってくれた人を、同じだけ好きになるようにする。

それが、恭一のこれまで通り過ぎてきた恋愛すべてに共通する、唯一で絶対のルールだった。でも本当は、同じだけの気持ちをフェアに与えあうことなんてできるはずもなかったのだ。

恭一の好意は、つねに彼女たちの与えてくれる愛情が前提で、それ自体で成り立つことはけっしてない。どこまでも受け身でしかない恭一に彼女たちは失望し、皆去っていったのだろう。

今の恭一には、そのことがはっきりと理解できた。

恭一自身、今ヶ瀬をどんなに大切に愛していても、いつかまた見限られるかもしれないと、なかば確信するように考えていた。

——それでもどうしても、愛することをやめられない。

これが恋愛ならもう二度としたくないと願うほど、それは重く苦しく、やるせない感情だった。


そんな葛藤のすえに、手に入れたもの——今、腕の中にあるぬくもりがすべてだった。

あれから数年後の現在。

触れあっている肌を通して、恭一に抱かれてやすらいでいる今ヶ瀬の体温と、今まさに刻まれている心臓の鼓動が伝わってくる。

そのあたたかさを今日も感じられることが、単純に嬉しかった。

何年そばにいても、彼が日々なにを思い、感じているのか、恭一には分からなかった。結局、どこまでいっても他人同士で、けっして相容れることがない。

それでも、こうしてともに生きている。

彼への恋心に完全に陥落したあの日以降、自分自身すら抗えない激情に押し流されるまま、たまきだけではなくさまざまな人を傷つけ、今ヶ瀬すら巻きこんでしまった。

いつか絶対に後悔すると、心のどこかで思っていた。けれど——

これでよかったんだ、と恭一は今この瞬間、心の底からそう思った。

小さな投石が幾重にも水面に波紋を広げるように、静かに深く響く感慨に胸を打たれる。

恭一は無言のまま、わざとのしかかるように今ヶ瀬の身体に脚を絡めた。すると今ヶ瀬が、「重い」と笑いを含んだ声で抗議し、身体を揺すって脚を振り落とす。

恭一が仕返しに、彼の身体を抱きすくめて腹をくすぐると、今度は声をあげて楽しそうに笑った。

その屈託のない笑い声に、恭一もつられて笑いだす。今ヶ瀬が笑ってくれると嬉しい。


——愛の言葉は難しい。

雪の降りしきる中、無力感にさいなまれつつ痛感したあの日以降、恭一はずっとそう考えていた。

しかし今ヶ瀬は、恭一の汚く狡くさもしいところをすべて知ったうえで、それでも貴方が死ぬほど好きだと、いつかそう苦しそうに伝えてくれた。

恭一自身、目の前のこの男——陰湿で粘着質で自分勝手で、どれだけ邪険にしても追い縋ってくるくせに、いざとなったらすべてひっくり返して逃げようとする、迷惑きわまりないこの男——を、どうしようもなく愛しているのだった。

それは、あまりにも想像していた恋とは違うかたちの感情だった。「好きだ」とか「愛してる」という一言では、とても言いあらわせそうにないと、つくづく思う。

しかし、その人間の身も心も自分だけがずっと独占していたいという、この熾烈な感情が恋なのであれば、間違いなく恭一の初恋の相手は、今ヶ瀬だった。

気持ちをうまく伝えられる自信がなく、肝心なことがなかなか言えない恭一に、今ヶ瀬はよく「大切なことはきちんと言葉で伝えてください」と、言い聞かせるように言う。

今、彼に伝えなければと思った。どんなに世間一般の常識からは外れているのだとしても、たしかに愛情としかいいようのないこの感情を——

誰かを愛する苦しさと、しかしそれを凌駕するはるかな喜びを、今ヶ瀬は自分にはじめて教えてくれた。

心から愛していると、今、彼に何度でも伝えたかった。

どんな風に話せばいいだろうかと言葉を探しながら、今ヶ瀬、と小さく声をかける。

——返事がない。

ふと気がつくと、テレビ画面はゆっくりと映画のエンドロールを流していた。余韻のある美しい音楽が、ベッドのまわりを静かにただよっている。

そっと彼のお腹に手をあてると、呼吸にあわせて規則正しく上下している。今ヶ瀬はいつのまにか、穏やかに寝息を立てていた。

彼の平和そうな寝顔をのぞきこみ、肩すかしをくったような、少し安心したような、複雑な気持ちになる。

明日起きたら、すぐに彼に伝えよう。今ヶ瀬はどんな表情をするだろうか。

きっと一瞬驚いた顔をして、それでもすぐに「俺の魅力がようやく分かったんですね」と、冗談めかして笑ってみせるかもしれない。

そのときの彼の表情を想像し、胸の奥がふわりとあたたかくなる。

ベッドを揺らさないよう、そろそろと部屋の明かりとテレビの電源を落とす。そして今ヶ瀬の身体をそっと抱きなおすと、その髪の匂いをもう一度深く吸いこんだ。

シーツは二人の体温で、すっかり心地よくあたたまっている。

なんの変哲もない日々の中で、こうして二人で同じ時間を積み重ねてゆける喜びを噛みしめながら、恭一は満ち足りた気持ちで、まどろむように目を瞑った。


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