その日は、薄曇りの空から吹きつける冷たい風にキャンパスの落ち葉が舞う、ひどく寒い冬の日だった。
構内に植えられた数々の桜の木は、ここしばらく素っ気ない木肌を見せていた。しかしよく見ると、枝のあちこちに蕾が芽吹いている。
やがてその蕾がいっせいに開き、春がやってくるのだ。冷たい風の中にも、確かにその新しい季節の兆しを感じさせる、3月のはじめの日だった。
今ヶ瀬は寒さに赤らんだ鼻先をマフラーに埋めながら、人気のないキャンパスの並木道を、黙々と歩いていた。
早朝のこの時間、用もなく構内をうろつく物好きな学生など、ほとんどいない。
今ヶ瀬自身、講義は午後からの予定だったが、明け方に目が覚めて以降、うまく眠れず——その理由は、自分でもよく分かっていた——どうせなら部室で課題でもやろうかと、こうして一人、大学に来ていたのだった。
薄暗いサークル棟に入ると、しんと静まっている廊下をまっすぐ進む。そして古ぼけた文字で「テニス同好会」と書かれてある、たてつけの悪い扉のノブをひねった。
すると壁際のロッカーの前に、思いもよらぬ人物の姿が目に入った。瞬時に、どくんと心臓が跳ねる。
「——恭一先輩」
「あれ、今ヶ瀬。早いな」
ドアが開いたことに気づき、恭一が振り返った。入ってきたのが今ヶ瀬だと分かると、たちまち親しげな笑顔をみせる。
「……卒業式まで、もう大学には来ないかと思ってました」
内心の動揺を悟られないよう、さりげなく恭一から視線をはずす。
「そのつもりだったんだけどな。ロッカーに荷物をいれっぱなしなの思い出してさ」
シンプルな紺のセーターを肘までまくりあげた恭一は、そう言って苦笑した。そばのテーブルに目をやると、いくつかの本やラケットが無造作に置かれている。
今年の春に卒業を迎える恭一たちの追い出しコンパが開かれたのは、つい先週のことだった。
同期生や夏生、後輩たちと楽しそうに話をしている恭一を、今ヶ瀬はその日、離れた席から見つめていた。
恭一と話せる機会は、これが最後かもしれない——そう考えながらも、うまくきっかけをつかむことができなかったのだ。
なにより、彼の姿をひそかに目で追い続けた数年間の片想いに、もう終わりが近づいていることが、まだ信じられなかった。
しかし今、こうして偶然にも恭一と会えたことに、予想外の驚きと嬉しさがこみ上げる。今ヶ瀬は「手伝います」と、あくまで “気のきく後輩” らしく言いながら、彼のそばに近寄った。
まるで望みのない恋だと分かっていても、恭一を前にすると胸がはずんでしまう気持ちだけは、どうしようもなかった。
そのとき、学術誌のコピーらしき紙の束が、恭一の手元からすべり落ちた。見覚えのあるタイトルが、ちらりと視界に入る。
「これ……」
床に落ちたそれを拾いあげながら、呟く。
「あぁ。確か一緒に借りにいったな」
懐かしそうに目を細め、恭一が小さく笑った。
大学図書館の検索端末の前で、なにか考えこんでいる様子の恭一に声をかけたのは、ちょうど半年前の秋だった。
「来週までにこの資料が必要なんだけど、誰か借りてるみたいでさ」
恭一の横からモニターを覗きこむと、おそらく卒業論文の資料なのだろう学術誌が、確かに「貸出中」となっている。
今ヶ瀬は頭の中で何度かそのタイトルを復唱すると、隣の端末で学外の横断検索システムを立ちあげ、手早く検索をかけた。
「先輩。その資料、ここにならあるみたいです」
そう言いながら、とある公立図書館のウェブページを開く。すると「えっ」と身体を近づけてきた恭一に、おもわず心臓が激しく鳴った。
「……直接行って申請すれば、コピーが手に入ると思います」
声が上擦らないよう、軽く咳払いをしてから付け足す。
恭一は驚きのこもった眼差しで今ヶ瀬の顔を見ると、「前から思ってたけど、お前ってこういう調べものとかうまいよな」と、心から感嘆した表情で言った。
恭一からのふいうちの賞賛に、たちまち顔が熱くなる。また「前から」という言葉も、彼の中で自分がずっと印象づいていた証のようで、震えるほど嬉しかった。
「ここだったらわりと近くだし、週末に行ってみるよ」
ふいに黙りこんだ今ヶ瀬を意に介することもなく、恭一は手元のノートにメモを取ると、ありがとな、と言って腰をあげた。
「俺も一緒に行きたいです」
立ち上がった恭一に向かって、つい、本心からの言葉がこぼれた。しかし口にしたとたん、しまった、と瞬時に後悔する。
「俺はかまわないけど……お前、用なんかないだろ」
恭一が怪訝そうな顔で言う。
「……ここの図書館、結構規模もでかいし、実は前から一度、行ってみたかったんです」
内心の焦りに反して、適当な嘘がすぐにすらすらと滑り出た。それでもわずかに怪訝さの残る恭一に、「それに俺も、レポートの資料を探さないといけないし」と、もっともらしく苦笑してみせる。
すると、恭一は腑に落ちたように「じゃあ一緒に行くか」と笑ってくれた。自分の言葉を少しも疑う様子のない彼の笑顔に、ほっと胸をなで下ろす。
——恭一を好きになってから、こんなくだらない嘘ばかりが、どんどん得意になっていく。
安堵する反面、そんな自嘲の思いが一瞬、苦く胸をかすめた。
それでも、彼と大学以外の場所で、二人きりで会える——たとえ、それがただの用事だとしても——そのことに、心が浮き立って仕方がなかった。
何日も前から天気予報を確認し、着ていく服をさんざん悩んで迎えた当日、待ち合わせ場所に向かってまっすぐ歩いてくる恭一の姿を見つめながら、喜びに胸が震えた。
図書館までの道筋はすでに調べあげていたものの、そんなことは知らぬふりで、恭一と一緒に地図を見ながら歩く。
そして、滞りなく複写手続きを済ませて建物を出ると、あたたかな午後の陽光が、まだ外をあかるく照らしていた。
ただそれだけのことに、まるで幸運の女神に背中を押されているような、心強さを覚えた。
「——あの」
意を決して、図書館の表階段を先に降りていく恭一の背中に声をかける。
「ん?」
「ついでに、あそこの公園、ちょっと寄っていきませんか」
そう言いながら、二人の立つ場所から数メートル先に見える、豊かな緑の美しい公園を指差した。
都内にしては大きな公園がそこにあることは、恭一との約束を取りつけた後、図書館の下調べをしているときから知っていた。
恭一と二人で、その散策路を歩いてみたい。
そのためにずっと考えていた台詞だったが、あたかも今、思いついたかのように発した声が、緊張で少しかすれた。
おもわず顔に血がのぼった瞬間と、そうだな、と恭一がおおらかな笑顔で答えたのが同時で、ほっと身体の力が抜ける。
そして、恭一は「いい天気だなぁ」とのんびりした声で言いながら、先に立って歩きだした。
休日の晴れた午後にも関わらず、オフィス街に近いせいか、池沿いの散策路の人影はまばらだった。
木漏れ日がそよ風に揺れる美しいその道を、恭一と二人で、ゆっくりと歩く。そうすることを心から願っていたはずなのに、しかし彼との間の会話は、先ほどから途切れがちだった。
いつもなら滑らかな口が、あまりにも完璧なシチュエーションにあがってしまい、時折、恭一が話を振ってくれても、うまく答えることができない。
自分から誘ったのだから、黙りこくっている場合ではないのに——。そんな焦りが、足を踏みだすほどに強くこみ上げる。
さりげなく恭一の顔を窺う。彼の横顔の向こうで、秋晴れの陽射しを反射している水面が、きらきらと眩しく光っているのが見えた。
早く帰りたい、という様子ではないかと勘ぐったものの、恭一はただ穏やかな表情をしているだけで、感情は読みとれなかった。
「あ」
沈黙に耐えきれず、何も考えつかないまま、おもわず声がでる。
「ん?」
「……池にカモが」
「え、どこ」
「あそこに」
「……気持ちよさそうだな」
「ですね……」
——ダメだ、間がもたない。
何かないかと焦りながら、園内へと目を泳がせる。すると視線の先に、青い庇のクレープの屋台があるのが見えた。
「——あれ、食いたいです」
深く考える間もなく、とっさにそう口にしていた。
この日は今ヶ瀬が勝手についてきたようなものだったが、恭一は「俺の用事につきあわせたから」と言って、それを買ってくれた。
「お前、意外と甘いものが好きなんだな」と驚いたように言いながら、「どの味がいいの?」と可笑しそうに目を細めて。
本当はクレープなど、まったく食べたくなかった。そんな屋台、普段なら近寄りもしない。二人でいられる時間がわずかでも引きのばせるなら、なんでもよかった。
店員に笑顔で差し出されたそのクレープ——実際に口にしてみると、大量の生クリームがたじろぐほど甘い——を、今ヶ瀬は恭一とベンチに腰かけ、ゆっくりと食べた。
その隣で恭一は景色を眺めながら、今ヶ瀬が最後の一口まで食べ終わるのを、のんびりと待っていてくれた。
それからはようやく緊張も解け、普段よりも長く、恭一といろいろな話をした。あんなに笑ったのは、いったいいつぶりだっただろう。
彼の隣にいるだけで、ふわふわと楽しくて痛いほど幸福で、しかしその分、別れた後の寂寥感も深かった。
帰って部屋に一人きりになることに耐えられず、そのままハッテン場に行き、適当な男と寝た。
「——今ヶ瀬、火、持ってない?」
そう恭一に声をかけられ、今ヶ瀬はふと我にかえった。恭一はいつのまにか煙草を手に、不思議そうな目でこちらを見ている。
自分の胸元に入っているライターを思い、今ヶ瀬の心臓がどくんと波打った。
それは以前、恭一からもらったライターだった。
ふとしたことがきっかけで得たそれは、しかしいつしか今ヶ瀬にとって、彼との繋がりを唯一、掌の中で確かめさせてくれる、ひどく大切なものとなっていた。
恭一にとってそれが、なんの意味もないことなど分かっていた。
捨てるつもりのライターを、そこに偶然居合わせた後輩に、ただ渡しただけだ。
けれど今、もし恭一がこのライターに気づいてくれたら——まだそんなものを持っていたのかと、そう尋ねてくれたら——いっそ打ち明けてしまおうか、とふと思う。
そしてその思いつきは、たちまち抗いがたい強烈な誘惑となって、今ヶ瀬の心を激しく揺さぶった。
——貴方のことが好きなんです。はじめて会ったときから、ずっとずっと好きだったんです。
ときに鋭い痛みを伴うほどのこの想いを、彼に素直に伝えることができたら、どんなにいいだろう。
今ヶ瀬はかすかに震える指先に力をこめ、火を灯したライターをゆっくりと、恭一の顔の前に差し出した。
ありがとう、と言いながら、恭一が煙草をくわえた唇を間近に寄せる。伏せた睫毛が、淡い影となって頬に落ちる様子がはっきりと見えた。
たちまち、胸を甘く締めつけられる。もう、どうしようもなく好きだった。
しかし、確かに視界に入ったはずのそのライターに、恭一が気づくことはなかった。
「……そういえば、今日は夏生先輩は一緒じゃないんですか」
ライターを胸ポケットにしまい、わずかに顔を俯けたまま尋ねる。すると恭一は、ふいにどこかを痛めたような表情を見せた。
「最近、避けられてるんだよな……振られるかも」
そう言って、苦笑する。
——そもそも最初から、好きなんかじゃなかったくせに。
おもわず、そう唇から言葉がこぼれそうになり、気づけば拳を固く握っていた。
この人は、どこまでも優しくて、そして残酷だ——。
夏生のことは大嫌いだった。
恭一とのさまざまな話を聞くたび、憎悪に近い嫉妬の感情に、内臓が煮えるような思いを何度しただろう。
それでも彼女の話を——ときに、巧みに話題を誘導すらしながら——引き出さずにはいられなかった。恭一が彼女に対し、いったい何を話し、どのように触れるのか、どうしても知りたかったからだ。
それがたとえ、孤独な夜にどれほど心を蝕む行為だったとしても。
彼女への気持ちを問い質しても、この男はきっと「ちゃんと好きだ」と言うだろう。無自覚なのだ。救いようがない——。
当然のような顔で恭一の隣にいる夏生のことを、ずっと忌まわしく思っていた。けれど彼女は、これまでどれほど、この男の穏やかな無関心に傷ついてきたのだろう。
そう思うと、今この瞬間、心の底から同情した。
恭一の優しさは、まるで沼のようだった。
恭一は誰に対しても、その優しさを惜しまず隔てない。しかしそれは、たとえ決まった相手がいても、それ以外の他者の好意を拒むことのできない弱さや狡さと、つねに表裏一体だった。
結局彼は、誰一人として、心から愛してなどいないのだ。しかしそのことに、彼自身だけが無自覚だった。
その優しさを表面上でなぞっているあいだは心地がよいが、深くはまれば、あとは足のつかない泥の中で溺れるしかない。
夏生は撤退することにしたのだ。この男の隣から——。
「……先輩なら、すぐにまたいい人ができますよ。モテるし」
目を伏せ、恭一と視線を合わさないようにしながら、言った。
「お前の方がよっぽどモテるくせに、よく言うよ。羨ましい奴」
おだてられたと思ったのか、恭一は苦笑しながら、冗談めいた調子でそう返した。
しかしそのなにげない言葉は、薄紙を手で破るほどの容易さで、今ヶ瀬の心をあっけなく裂いた。
それでも、声と表情だけは愉快そうに、恭一の言葉に笑ってみせる。そうしながら、ひどく暗い絶望感が、胸につめたく満ちていくのを感じていた。
——いったいどうすれば、この男を好きだという気持ちを、なくすことができるんだろう。
注意深く顔に笑みを貼りつけたまま、何度も繰りかえされる痛みに麻痺した頭で、ぼんやりと思う。
ふと、恭一は壁の時計に目をとめると「やべ、もう行かなきゃ」と、慌ただしく荷物をまとめはじめた。これから、教授と学生課に挨拶にいくと言う。
どうやら、あの学術誌のコピーは、他の冊子類と一緒に処分してしまうようだった。
「……それ捨てるんなら、もらってもいいですか。俺も読んでみたいです」
「いいけど、いろいろ書きこんじゃってるぞ」
「大丈夫です」
今ヶ瀬が答えると、恭一はとくに気にかける様子もなく、はい、とそれを今ヶ瀬に手渡した。
「じゃあな」
そう言って、屈託のない笑顔で笑いかける。
「これから就活とか大変だろうけど、頑張れよ」
俺でよかったら相談にのるから、と最後まで彼らしく付け加える。
「ありがとうございます。——先輩も、お元気で」
そして恭一は、後ろを振り返ることもなく、あっけなく部室を出て行った。
急にしんと静かになった部屋の中で、今ヶ瀬は椅子に腰かけ、学術誌のコピーをぱらぱらとめくった。
恭一の言葉通り、中には彼が引いたのであろう傍線やメモがいくつかあった。その筆跡を、指先でそっとなぞる。
先輩らしい、几帳面な字だ。そう思い、ふっと笑みがこぼれる。
そのときふいに、紙面にぱたぱたと数滴の涙が落ちた。それを見て、今ヶ瀬ははじめて、自分が泣いていることに気がついた。
突然の涙に驚愕し、慌てて目元を拭う。外で涙を流すことなど、つねに自身の内面を注意深く隠している今ヶ瀬にとって、考えられないことだった。
今にも誰かが、この部屋に入ってくるかもしれない、という危惧が頭をかすめる。しかし一度堰を切った涙は、もう自分の意思では止まらなかった。
恭一の温もりを求めて、こうしてなんの意味もないかけらを必死に掻き集めている自分が、ひどく惨めだった。
こんな気持ちになるくらいなら、もう一生、誰のことも好きになりたくなかった。
本当は、と歯を食いしばりながら思う。
本当はずっと、恭一に触れてほしかった。そしてそのあたたかな身体と抱きあい、頬を寄せ、おたがいの熱を直接、肌で伝えあってみたかった。
それがたとえ、たった一度きりでも構わなかったのに。
でも結局は最後まで、この抱えきれないほどの想いを、恭一に知ってもらうことすらできなかった。
浅い呼吸を繰りかえし、こみ上げる嗚咽をかみ殺しながら、今ヶ瀬はひとしきり、一人きりで泣いた。
ようやく涙がとまったとき、今ヶ瀬は自分の片想いが今、静かに終わりを告げたことを悟った。
大きく息を吸いこんで、ゆっくりと吐く。そして服の袖でざっと目元を拭うと、鞄をもって立ち上がった。
部室を出る直前、恭一からもらった紙の束を、ばさりとゴミ箱に捨てる。それから胸ポケットのライターを取りだし、これも捨ててしまおうと、乱暴に手を振り上げた。
しかしそのまま動きを止め、しばらくその場に立ち尽くす。
掌に痛く食いこむほど、ライターをきつく握りしめる。どうしても、その手を振り下ろしてしまうことができなかった。
束の間、躊躇したすえに、ライターだけはそっと、胸元に戻す。
さようなら、先輩——。
おそらくもう、二度と会うことはないだろう。今ヶ瀬はそう思いながら、誰もいない部室を一人、後にした。
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