その男性客のことが気になりはじめたのは、半年ほど前のことだった。
きっかけはよく覚えていない。郊外の小さなレストランで見習いをしている幸生にとって、その男は長い間、たまに訪れる常連客の一人でしかなかった。
通いはじめた頃から、男は特に目立つ客でもなかったが、彼の皿を下げるとき、その食べ方のきれいなところに好感をもっていた。
月に数回、主に休日の昼間にふらりと訪れるその客と、少しずつ会話を交わすようになった頃、彼が「大伴 恭一」という名前であること、店の近所に住んでいることなどを知った。
彼の左手の薬指には、いつもシンプルな艶消しの指輪があった。世間話から察するに、奥さんが出かけている週末に、たまにうちにご飯を食べにくるようだ。
週末がくるたび、彼の来店を心のどこかで待っている自分に気がついたのは、勤めはじめて数年が経ち、少しずつ厨房に立たせてもらえるようになった頃だった。
決定的な瞬間は、あっけなく訪れた。はじめて幸生にすべての工程が任されたメニューを提供した日、彼らしい穏やかな声で「美味しかったよ」と微笑まれた瞬間。
幸生ははっきりと、自分が恋に落ちたことを悟った。
叶いようもない恋は、恋愛に苦手意識を抱いている幸生にとって、かえって安堵と平穏をもたらした。
自分の恋愛対象がどうやら同性であることに気づいたのは、人よりも遅く、幸生が大学生の頃だった。
相手は当時、幸生がもっとも親しくしていた同期の友人で、いつものように彼と酒を飲んで雑魚寝をしていたとき、唐突にそれは起こった。
ふと目を覚まし、間近に彼の肌の熱と匂いを感じた瞬間、「彼に触れたい」と思った。触れるだけではなく、自分の手で彼の隠されたすべてを暴き、口に含み、愛撫して夢中にさせたかった。
かつて、幸生は女性と付き合った経験もあったが、彼女たちに抱いていた柔らかくあたたかな——一方で掴みどころのない——ぼんやりとした思いとは違い、それははっきりと具体的で、比べようもないほど圧倒的な欲望だった。
その欲望に、幸生の身体はたちまち反応した。そして幸生の動揺が伝わったのか、友人は目を覚まし、すぐに幸生の異変に気づいた。
その瞬間、彼の瞳によぎった驚愕と恐怖の色を、おそらく一生忘れることはないだろう。それは幸生の脳裏に焼きつき、ことあるごとに罪悪感で押し潰した。
当時、あまりにも深く混乱していた幸生には、彼に何を説明することもできなかった。それでも、何度か声をかけようと試みるたび、あの瞬間の彼の瞳を思い出し、言葉はいつも喉の奥で凍りついた。
そのまま疎遠となった今、彼がどうしているのか、幸生にはもう知る方法もない。
結局のところ、あの頃自分の抱いていた感情が本当に恋だったのか、今でも幸生には分からなかった。しかし今さら、それが分かってどうなるだろう。
幸生に残ったのは、自分にとって大切な一人の人間を、自身の性癖のせいで失ったという事実だけだった。
それから、ひどく不器用な片想いを何度か経験したが、自分が同性愛者であることを受け入れられないままする恋は、実るはずもなく、ただ苦かった。
そんな過去の恋愛と比べると、決して発展しないかわりに傷つくこともない彼への恋は、幸生を不思議とやすらがせたのだった。
彼は一人でランチに来ることが主だったが、時折、端正な顔立ちの男性と二人で、ディナーに訪れることもあった。
会話の切れ端から、彼が男に「先輩」と呼びかけられているのが耳に入る。
注文を取りにいくと、彼らはすでにリラックスした雰囲気で、ワインリストを眺めていた。二人で何を飲むのか、楽しそうに相談している。
いつものように、大伴さんと軽く雑談しながらメニューについて説明する。その中で、彼が指した一つの品にどきりと胸が高鳴った。
「それ、俺が考えたメニューなんです。結構自信あって……」
ひそかに彼の好みに合わせて考案した料理であることもあり、少し声がうわずった。
「へぇ、美味そうだな。じゃあそれをもらおうかな」
「——俺、今日は魚が食いたい気分なんですけど」
すると突然、それまで黙って説明を聞いていた連れの男が、メニューに目を落としたまま、会話を遮るように言った。
こうして近くで見ると、本当に美しい男だった。テーブルの間接照明に淡く透ける色合いの髪が、中性的で整った顔立ちによく似合っている。
しかし彼はどこか不機嫌な様子で、こちらをちらりとも見ようとしない。幸生は、つい浮かれて余計なことを口走った自分を恥じた。
それにしても、大伴さんのことを「先輩」と呼んでいたが、普通のサラリーマンにはとても見えない。学生時代の友人だろうか。
「どれ」
大伴さんは場の剣呑な雰囲気にはまったく気づかない様子で、彼の手元を覗きこんだ。そして、「じゃあ、それとこれの二つにしよう」と機嫌よく言う。
注文を取ってからは、他の客の応対もしながら、厨房とフロアを慌ただしく行き来する。彼らのことが気になりつつも、そう頻繁に様子を窺うことはできなかった。
しかしふと、連れの男のグラスの水が少なくなっていたことを思い出し、幸生はボトルを手に取った。パンのおかわりも確認しておこう、と足早にテーブルに向かう。
「大伴さん——」
そう声をかけた瞬間、テーブルの上で重ねられている二人の手に気づき、言葉が止まる。
大伴さんは驚いた顔でこちらを見ると、焦った様子で思いきり手を引いた。その弾みで、テーブルの上のグラスがガタンと倒れる。
「あぁっ」
大伴さんが、慌てた声で腰を浮かせた。幸い、少し中身がこぼれた程度だったが、彼はますます動転したのか、見ているこちらが気の毒になるほど、顔を真っ赤にしてうろたえている。
一方で、向かいの男は感情の読めない眼差しで、なぜか幸生の方をまっすぐ見据えていた。大伴さんとは対照的に、その様子に動揺や恥じらいは一切窺えない。
「すみません。なにか拭くものをいただけますか」
数秒の間のあと、淡々とした言い方でその男が言った。
「あ……。すぐにお持ちします!」
——そういう関係だったのか。
見てはいけないものを目にした衝撃と動揺で、ボトルを持つ手がわずかに震える。
既婚者だと思っていたのは、自分の勘違いだったのだろうか。なにより、あのときの大伴さんの表情——。
他人に見られたことへの羞恥はあっても、あの男の手を決して拒んでいないことは、その顔を見れば一目で分かった。
頭が混乱したまま、なんとか最後までサーブを終える。会計は、珍しく大伴さんではなく連れの男が行うようだった。
彼とカウンターを挟み、どこか気まずい空気が漂う。クレジットカードの署名欄をちらりと窺うと、そこには「今ヶ瀬 渉」とあった。
「……あの人、ここの料理が美味いんだって、よく俺に話すんですよ」
カードリーダーの読み込みを待つ数秒間、男がふいに沈黙を破った。
まさか彼から話しかけてくると思わず、一瞬、反応が遅れる。しかし男は、幸生の返答には構わず続けた。
「俺がメシを用意できない日は、よく寄らせていただいてるみたいで。いつもありがとうございます」
今度こそ、言葉にならない驚きで彼の顔をまじまじと見上げた。
おそらくよほどあっけにとられた、間抜けな表情をしていたのだろう。
今ヶ瀬という名のその男は、目鼻立ちの良さが際立つ無表情をわずかに崩すと、ふっと勝ち誇るように薄く笑った。
まるで威嚇するようなその笑みに、先ほどのテーブルでの場面が蘇る。
——わざとだ。
彼はあのとき、自分がテーブルに来ることを予測したうえで、わざと大伴さんの手を握ったのだ。直感的に、幸生はそう確信した。
おそらく、幸生の秘めた恋心をするどく察知したのだろう。彼はそうすることで、はっきりと牽制してみせたのだ。「この男は俺のものだ」と。
ふと、財布を手にした彼の左手に目が吸い寄せられる。その薬指には、見慣れたデザインと同じ、シンプルな艶消しの指輪がはめられていた。
動揺を隠せない幸生を尻目に、彼はさっさとカードを受け取ると、扉の外へと出て行った。
考えがまとまらないまま、慌てて彼のあとを追う。店の外へ出ると、二人はすでに近くの交差点まで歩き去っているところだった。
その彼らの背中に向かって、気づけば無我夢中で、「またお越しください!」と叫んでいた。
驚いた表情で振り向いた大伴さんの隣で、今ヶ瀬という男は「まだ懲りていないのか」といわんばかりの仏頂面をしている。
そのあからさまな表情の差に、おもわず苦笑がこぼれた。同じく、苦笑しながらも手をあげてくれた大伴さんに、深くお辞儀を返す。
——あーあ。失恋だ。
頭を上げ、軽くため息をつく。でも、どこか清々しい気持ちだった。同性同士で愛しあう人たちは、こんなにも近くに、当たり前に存在していたのだ。
どうしてもっと、早く気づかなかったのだろう。身体こそ触れあっていないものの、親密な雰囲気で並ぶ姿は、こうして見るとカップルそのものだった。
幸生は、ゆっくりと街のネオンに紛れていく彼らの姿をしばらく眺めたあと、ふたたび慌ただしい店の中へと戻っていった。
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